町田 康 (1962~)

 

作家・パンクロッカー。
1981年、パンクバンド「INU」のボーカリスト町田町蔵」としてデビューし、アルバム『メシ喰うな!』を発表。INU解散後も様々なバンドで音楽活動を続ける傍ら、本名の「町田康」として1996年に処女小説『くっすん大黒』を発表。2000年、『きれぎれ』で第123回芥川賞受賞。以後は主に作家として活動し著書多数。現在はバンド「汝、我が民に非ズ」のボーカルとしても活動。

 

私の精神的ヒーロー、町田康に光栄にも話を聞くことができた。今まで幾度となく聞いた歌声や、夢中で読んだ数々の文章の出処であるひとと机を挟んで座り話を聞く、というのは現実感が無く奇妙なことだった。自らの体験や考えを見ず知らずの大学生に笑いを交えて語ってくれる彼はあくまで柔和かつ軽快だった。だからこの人も年を取ったのだな、と不遜にも思ってしまうことがあった。しかし、我々の質問に答えるふとした瞬間にINUの「メシ喰うな!」のジャケットの、あの心を抉るように鋭角な視線が今の彼の眼に宿る。だからといってINU時代の町田町蔵そのままではない。眼前にはどこまでも現在進行系の町田康がいた。
何はともあれ以下、町田康へのインタビューの記録である。彼の著作同様、彼の声を聴くように気軽になって読んでほしい。文:堤 悠平

 

2018年5月31日、新宿カフェアルルにて。

1.70年代~80年代のユース・カルチャーの雰囲気

人物研究会:本日は人物研究会のインタビューをお受けいただき、ありがとうございます。早速ですが、本日は町田さんの長きにわたる音楽や文学の活動についてや、80年代の若い人の文化やカルチャーについてお聞きできればなと思っています。

町田:あまり詳しくないんですが。

人物研究会:まずちょっと昔の話になってしまうんですが、バンド活動を始められる前、中学生や高校生にかけてどのような音楽を聞かれていましたか?

町田:中学校と言うと70年代前半位ですけど、70年代前半と言うのはそんなに詳しく音楽を聴いていたわけじゃないんですけど、世の中で流行っている音楽、普通にテレビとかラジオとか流れているのと、それと自分でわざわざ聞く音楽と自分の中には2種類あったと思います。別に世の中に流れている音楽を聴かなかったわけではなくそれは普通に聞いていて、そういうのはいわゆる歌謡曲と言うジャンルでしたね。ベストテンとかそういう番組がありまして、歌謡曲を聴いていました。そういうのは聞こうと思わなくても自然に耳に入ってくるものですし、わざわざ聞くものの最初は、フォークソングみたいな、要するに井上陽水さんとか、まぁ今でも活動されていますけど、後は吉田拓郎さんとか。

人物研究会:友部正人さんとかお聞きされていましたか?

町田:田舎の中学生だったもんですから、そこまでそう専門的な、別に井上陽水さんも一生懸命聞いた訳じゃないというかそれも友達に教えてもらったりとか、そんな感じですかね。それからまぁそうこうするうちにロックとか、要するに洋楽ですね、そういうの方がなんとなく日本のものよりもちょっとかっこいんじゃないか、そんなような感じがあって、ちょっと聞き始めたんですね。それも自分で探すのではあんまりなくてラジオで聞いたとか、友達に教えてもらったりとか。

人物研究会:当時は学校の同級生とバンドを結成されたと言う事ですが、わざわざそういった音楽を好き好んで聴いていると言う人が少数派だった時代に、ただ少数派とは言っても学校で簡単にバンドを結成できるぐらいにはロックは聞かれていたんですか。

町田:都会、東京とかだとそうだったのかもしれませんけど、まぁ僕は田舎でしたから、なかなかそういう仲間も探せませんしいなかったですね。だから学校内でというよりは違う別の中学のやつとか、そういう奴と知り合いになったりとか、別の高校のやつとかそういう感じでしたね。

人物研究会:最初にこの音楽を聴いて「ロックバンドをやろう!」と思った音楽などはありますでしょうか。

町田:最初バンドやろうと思ったのはね、The Rolling Stones(以下ストーンズ)を聞いて、ストーンズは最初60年代に結成したときは、リズム&ブルースとかをやっていたんですが、でもだんだん迷走しだして(笑)。そしてビートルズがその頃はまだ解散から時間も経っていないので、割と現役のロックバンドというか、そういう人気がまだあったので、今みたいにこう歴史上の人じゃなくて、それを意識したストーンズが、割と迷走しているというか(笑)。いろいろなことをやろうとしてはやっぱり原点に戻ったほうがいいんではないかというか、そういうときのストーンズですね、ちょうど。70年代中盤から後半の。最初はそんな感じですね。

人物研究会:最初いきなり曲作りからというか。コピーはやらなかったのですか。

町田:そうですね。というかね、あの頃は今ほど、今頃、でも昔もうまい人はうまかったんですけど、今ほどは平均のレベルが低かったのでやっぱり難しくてできない感じが多かったですね。

人物研究会:当時の若い人たち中高生というのはそうやってバンドを始める人たちが一定数いたのですか?

町田:ふたつに分かれてました。昔のこと過ぎてどう説明したらええのかわかりませんけども、ふたつに分かれていて、やっぱロックとかやる子はね、お金持ちの結構学歴の高い家の子が多かったですね。そういう文化みたいなことを、ロックなんてやってるのは家に本とかがあるとか、親の社会的な階層もある程度上の感じの、まああるいはそんなに教養のない家庭でもお金はあるとか、子どもにせめてせいぜい楽器を買ったりとか基礎的な音楽の教育をできるような家の人が多かったですね。それで貧乏な子はじゃあ何してたかっていうと、やっぱヤンキーですね今で言う。まあ昔も大阪ではヤンキーて言うたんですけども、いわゆる「キャロル」であるとか…

人物研究会:リーゼントをしたり、

町田:そうですね、ああいう感じでしたね。

人物研究会:当時は、例えば「外道」とかいう人たちは暴走族みたいな人たちから人気があったとか聞きますが、日本の割と初期のロックバンドのファン層というのは、若い方たちですよね?最初、初期の方にライブをやっていて、お客さんたちというのはどういった方だったのか結構気になるのですが。

町田:あぁ、それもふたつに分かれてて、いわゆる大学生で、プログレも聞いてて、いろんなレコードを集めるのが趣味で本もそこそこ読んでて…

人物研究会:京都の文化的な大学生というか

町田:そうですね、そういう感じの人たちと、それからほんとの、パンクの時代ですから、ホントの暴れたいヤツのふたつに分かれてましたね(笑)。

人物研究会:なるほど。結構その、お坊ちゃんタイプと言ったらアレですけど、結構裕福な家庭で育って進学校で文化的な素養のあるみたいな…

町田:簡単に言うと学生中心か、あるいは中高生中心か、という。けどまだあの頃は時代的に学生運動を引きずっていたような、そういうグループも一部にはいましたね。

人物研究会:学生運動と結びついていたフォークというようなものと、共存していた…。

町田:そうですね、まだまだ、要するに僕らの前の世代ほど活発じゃないけど、自分が信じた思想をまだ信じ続けてる人はたくさんいましたね。

人物研究会:ややイメージ的には60年代後半から70年代にかけての関西のそういった音楽シーンって、パンクとかが出てくる以前はフォークがアンダーグラウンド的で、反体制的なものであるという。そういうのを聞いていたような層の人たちが、そういう(パンクの)ライブに行ってたのですか?

町田:そういう人もいました。色んな人がいましたから、ミックスされた感じですね。

人物研究会:パンクス一辺倒という感じでもなかった。

町田:そうですね、コンサートの出る場所も今ほどなかったですから、そういう大学のにね呼んでくれるのは学生運動の関係の人、流れの人だったわけですね。

人物研究会:企画者がそういう方だったということですか?

町田:企画者っていうかまあ、そういうのも連絡があったんでしょうけど、その時まだ高校生でしたから、やっぱりそれの事情はまあ、ちょっと年上の人たちが、こうセッティングしてくれるとか。

人物研究会:結構多彩なジャンルの中で、学生中心の人たちが「面白いミュージシャンがいるから呼んでみようという感じだったのでしょうか。

町田:まあ、うーん、簡単に言うとそういうことなんです。ええ、まぁ、あのだからそういうパンクムーブメントみたいなものがあって、そういうのも社会運動というか、そういうものに関係してる人とかも、ちょっとこう掠るっていうか(笑)。もともとロックカルチャー自体がそんな雰囲気を持ってたし、あとはもうちょっとこう、なんと言うんですかね、スノビズムと言うんですかね、もうちょっとこう趣味っぽく「音楽好きなんだよ」みたいな、プログレが好きで、今で言ったら宅録的な機材を山積みにしてやってる人もいましたし、まあ東京は知りませんけど、東京はまた別の事情があるんでしょうけど。

人物研究会:今はインターネットでそういう情報を得る人が多いと思うのですが、当時の若い人たちはそういった情報をどこから得ていたのでしょうか。

町田:それは、嗅覚っていうか、学校なんか行っててもおもろないわけですよ。昔のライブハウスっていうのは、今よりもっと商売だけの場所じゃなくて、ヤバい場所だったわけですよ。あとは昔の芸能崩れ的な人たちや、暴力団的な人たちもいたから、危険な感じがあったんですよ(笑)。学校よりかはそういう場所に行きたいなっていう。

人物研究会:ミュージシャンを見るために行くというよりは、トガッた中高生が面白いもののためにライブハウスに出入りするという。

町田:そうですね、あとはそういったロックの雑誌、ロックマガジンという雑誌があって、雑誌自体が店のようなものを企画したりとか。

人物研究会:そういうカルチャー誌は田舎の本屋にも普通に売ってたんですか?

町田:売ってたと思いますけどね、ええ。

2.INU結成、当時の生活について

人物研究会:町田さんご自身は音楽のそういう界隈にどのような経緯で足を踏み入れられたのですか?

町田:僕は友達や知り合った人1つ年上の人がロックマガジンの編集部に出入りしていたり後はいろんな知り合いが行ったことのないライブハウスとかに友達に連れて行ってもらいましたね

人物研究会:そういう人とは一番最初どういうきっかけで知り合いになられたんですか?

町田:最初はメンバー募集の広告を出してから広告をかけて1回会おうやと言う感じで、この頃は1回会おうよと言う感じですぐ誰とでも会って、10代ですからわりとすぐ友達になる。

人物研究会:フットワークが軽かったと言う感じですか、どこでも興味があったら行くと言うような。

町田:そうですね。京都なんかもしょっちゅう行ってましたし割とどこにでも行きましたね。

人物研究会:INUは最初からパンク志向だったんですか?

町田:最初はストーンズに影響受けてロックンロールぽい感じをやってたんですけど、下手すぎてグチャグチャになってるんですよ(笑)。グチャグチャになってるときにそれを聞いた大学生ですごくマニアックな音楽やってる人がそのグチャグチャの前衛性を、アバンギャルドだと思ってやってないんですけど下手すぎて「結果的にアバンギャルドになってて面白いね」みたいなことで色々教えてくれたり、そういうところで自分で色々聞くようになって、それでCaptain Beefheartとか、CANとかのジャーマン・ロックを聞いて面白いなと思いましたね。

人物研究会:そっからそういう音楽性を志向していった?

町田:それをまた真似してやるんですけどまたぐちゃぐちゃになって(笑)。

人物研究会:INUがメジャーデビューする直接のきっかけはそれではない?メジャーデビューの経緯というのは…。

町田:グジャグジャででやってたんですけど、ギターの北田(昌宏)っていうやつがすごい才能のあるやつで、彼が入って音楽性が急に向上したんですよね。それでまとまってきて、 業界の関係ある知り合いの人とかが見に来て、ちょっと面白いねって言ってじゃあレコード会社に紹介しようかって。そんな感じです。

人物研究会:北田さんはINUに加入する前から上手いとして有名だったんですか?

町田:有名っていうんではなかったですよ。

人物研究会:どういうきっかけで出会った?

町田:彼は元々僕の友達とバンドやってて、その友達とINUのギターと大学が一緒やったんですよ。その当時のギターの、その友達がINUのギターやめることになって、誰か手伝えるやつおれへんかってなって、それが北田だったんです。


人物研究会:INUの作曲の分担は?例えば作曲が町田さんで作詞が北田さんといったような。

町田:いやいやもうですからぐちゃぐちゃですよ。作曲っていうかだからいわゆる作曲でもないわけですよね。でギターは彼が勝手に弾いて。ドラムとかベースにこうしてくれって指示は出すんですけどじゃあ俺はどうすればいいっていうと知らん勝手にせいって(笑)。そんな感じですかね。

人物研究会:スタジオで合わせながら曲作りを?

町田:今ほどあまり整理された状態じゃなくて混沌としてますので、色んなことも。

人物研究会:今Youtubeにもありますけど、町田さんが当時INUをやってるときにリザードの悪口をいうようなのが印象的ですが、当時他のバンドに対する意識というか、対抗心みたいなのはやっぱりあったんですか?

町田:うーん…そうですね、なんかこう…非常に申し訳ないです(笑)。まさか三十数年も経って…。まあ若気の至りです。

人物研究会:当時のバンドシーンに対してこれは違うんじゃないかとか、不満そういった違和感みたい な気持ちはあった?

町田:それは…まあ制度がおかしいとかそういう気持ちはあんまりなかったというか、わりと早くにデビューしたので、システム的な不備みたいなものは考えなかったですね。好きと嫌いがあっただけで。


人物研究会:それは純粋に音楽的に?

町田:まあ音楽的にというか存在自体でしょうね。なんとなく音楽的に好きな感じ嫌いなもありますけどそういうのも含めて全体的な佇まいとか。日本の知ってるやつじゃなくても、なんとなくこいつら嫌いやとか。

人物研究会:スタンスとかそういう?

町田:知らんくせにね(笑)。Joy Divisionとか嫌いでしたね。

人物研究会:どういうところが?

町田:あの暗い感じ(笑)。何をウジウジ言うとんねんって(笑)。

人物研究会:他のあのへんのポストパンクバンドでいうとPublic Image Ltd.とかあの辺はお好きでしたか?

町田:そうですね、ご陽気というか抜けたものが好きなので。まあ個人的な趣味嗜好ですけども。

人物研究会:その後メジャーデビューされて、最初に『メシ喰うな!』のアルバムがまず聞かれているくらい人気になっていった経緯というか、メジャーデビューと言っても全国の CD ショップに並ぶみたいなではないですよね。人気になっていった経緯というか。

町田:別にそんな人気なかったですよ。当時は。時代が立ってだんだん再発してまた、その時々の人が聞いてくれるという感じ。


人物研究会:私の父親がちょうど 80年代頭くらいに京都で大学生やってたんですけどINUのレコードを買ったりしてたみたいのを聞いたんでそれは少し驚きです。

町田:京都でも学生いっぱいいますからね。そういうのは特殊な学生だと(笑)。まあ大多数の学生はあのころはもっとこう…ポパイズとかいうやつとか。

人物研究会:今のロッキンオンはメジャー志向というかアングラ的な雰囲気はないですね。当時は結構コアな学生が読んでる雑誌というイメージで。バンドを取り上げる音楽雑誌の中でも棲み分けはありましたか?

町田:そうですね、そんなイメージはなかった。メジャーなのはもっと、ミュージックライフとか。時代によって違うんですけど 80 年代前半はあったんじゃないですかね。まあだからパンク的なものを出してる雑誌と無視してるのとがあった。パンク・ニューウェー ブに肩入れするかしないかそれによって結構分かれて、肩入れしすぎてだめになったのもありますし(笑)。まあ一応その評論としてのステータスを保ちながら成立してるのと色々だったんじゃないですか。


人物研究会:結局INUはメジャーデビューから数か月で解散されますが、なぜ?

町田:僕があまり解散する気はなかったけど北田は違うことやりたかったんじゃないですかね。


人物研究会:じゃあ音楽性の違いということで?


町田:なんか違うことをやりたかったんでしょうね。

人物研究会:当時はこのまま続けていけばどんどん売れるっていう雰囲気ではなかった?

町田:そうですね。逆にこんなことやっててもなって感じ。音楽で生活できないだろうなとは、最初から。出す前からこれは無理だなって。市場規模は大きくないですから。


人物研究会:東京ロッカーズとかで売れてる人とかはいましたか?

町田:なかなかそんな人はいなかったと思いますけどね。 バンドブームとかそういうのが来て、パンクニューウェーブとか商業的にある程度はメジャーみたいな人が出てきて。
僕は業界盛衰史みたいなことは詳しくないのでよくわかりませんけど。あの頃一時的に貧乏だったのにインディーズで始めて羽振りよかったやつとかはいますけど。要するにミュージシャンというより裏方的なレーベルをやって応援するとかもあるので。


人物研究会:当時はアルバイトとかで生計を? 二十代の頃、これからの将来設計についてはどういう生活をしていくかは。


町田:あんま人ほどはやりませんでしたけど、時々やってました。そんなしんどいことはしません。 軽作業とか工場とか引っ越しの手伝いとかとか。雇われてずっと同じところにいるようなことはなかった。まあ時代によっては違うんですけど80年代前半くらいはあったんじゃないですかね。あの頃まだ日本経済と言うのが今ほどそんなに考えてなかったんですねそれに関して。まぁなんとなく大丈夫でしょ、みたいな感じがあったんで、今みたいにこう、危機感を煽ってなかったんで(笑)みんなこう割と気楽で、事実景気も80年代後半良かったので。だからみんな割と心配してなかったですね。

人物研究会:このまま景気が上向きでついていくだろうと。

町田:みんなこれが続いていくんだろうと思っていたんじゃないんですかね。

人物研究会:町田さん個人の性質としても、悩むことがあっても、思い悩んだり鬱屈したりという事はあまりしないんですか。

町田:そうですね、あまりしなかったですね。

人物研究会:軽く、明るく考えようみたいな。

町田:そうですね、僕がと言うより世の中全体が割とそんなに鬱屈してなかったというか抜けてた感じがしますね。なんとなくみんな気楽でした(笑)。バイトで、貧乏でよければバイトだけで一生いけるだろうとみんななんとなく思っていたんじゃないでしょうか。そんな感じでした周りも。

人物研究会:周りの方とはいつもロック喫茶のような場所で集まっていたんでしょうか。

町田:店があって、そーゆーたまり場的な店があって、そういうとこ行くと誰か知り合いがいたりとか。そんな感じでした。そんで金がないときはまぁみんな大体下北沢とか、地方出身の人がね、そういうとこに住んでいて、そいつの家に行ったりとか、ほんで何か話するとかそういう感じでしたね。それで中には金持ちの奴がいて、渋谷のど真ん中の広いマンションに1人で住んでるやつとかがいて、そこがたまり場になったりとか(笑)そんな感じでしたね。

人物研究会:なるほど。パンク、ニューウェイブ界隈の拠点、例えばナイロン100%とかそういう店がいくつかあったのですか?

町田:ナイロン100%は本当に短かったんではないでしょうかね。1年もなかったんじゃないですかね。ただあそこでレーベルを作って、ソノシートを作ったりしていましたからそれは画期的な店でしたよね。後は吉祥寺にマイナーと言うお店があって、そこはちょっとノイズ系のバンドがいっぱい集まっていて、今で有名な人言うと灰野(敬二)さんとかああいう人がいましたね。

人物研究会:そういったパンク・ニューウェイブ兄の店はまだ残っている店はあるんでしょうか。

町田:どうでしょうか。80年代に鹿鳴館というのができたんですよ。目黒のほうに。鹿鳴館は行ったらね、できてすぐにやったんですけどね、楽屋がね畳敷きなんですよ。鏡があって、その鏡の前にこれぐらいの座ってちょうどええぐらいの木の棒が部屋の壁にぐるっとあったんですよ。要するに寄席の楽屋なんですよ。だからもともとあそこは寄席だったみたいですね。

人物研究会:鹿鳴館と言えばビジュアル系のイメージが強いですが。

町田:途中からそうなりました。でもすぐに寄席感は無くなりましたけど。ジャムっていうのが新宿にできて、そこがあの頃できた感じでしたね。後はできて潰れた店もいっぱいありましたね。クロコダイルなんかはまだ今もやっていますけど。ロフトなんかもありますけど、新宿ロフトは格上っていうか、なかなか出るのが難しいみたいな感じでした。

人物研究会:吉祥寺周辺で出ていたライブハウスはありましたか?

町田:吉祥寺はね、そのマイナーとか、後は今もあるかもしれないけどシルバーエレファントとか、僕はあんまり出ませんでしたけどプログレ系の店ですね。後は明大前にキッドアイラックホールというのがあって、初めて東京に来た時はそこでやりましたね。新宿にあったアシベなんていうのも、パンク・ニューウェーブのコンサートをやっていました。まだあんのかな、アシベなんて。ACBて書いてアシベって読むんやけど。

人物研究会:聞いたことないので、もうないと思います。高円寺とかにはなかったんですか。

町田:あぁそうですか。高円寺はですね、なかった気がしますね。(乗り出して)わかりませんよ、これは全て僕が個人的に体験した狭い偏った話をしているんで、これがあの時代のすべてだと思ってほしくないんですけど。あくまで、私が個人的に体験したことですから、えぇ。これが全部そうだったと言われても困るんですけど(笑)。もしかしたらあったかもしれないですけど、僕はそういうところには出た記憶がないということです。

3.歌詞における関西弁について、音楽から文学への転身

人物研究会:音楽の話になるんですけれども、町田さんのINUのときの歌詞というのは関西弁を使われていますけど、それは意識的に関西弁を使われていたんですか?

町田:(ちょっと考えて)そうですね。それは明確にありましたね。そこは、なんていうんですかね、洋楽に影響を受けてロックをやる、ある種モノマネみたいな、外タレの真似みたいな(笑)をやりながらですね、やりながらもそういういわゆるその、言葉は悪いですけど、魂はないのに形だけ真似ているというか、猿真似的なことが非常にかっこ悪く思て、自分の中で。自分の中身を、内実を伴った言葉を歌にしたいという気持ちが強かったんですよね。だからバンド名も日本語ですし、アルバムタイトルも日本語ですし、曲のタイトルも一部外国語がありますけど、多くは日本語でつけようと自分は思っていましたね。

人物研究会:当時から詩的なものを書こうという意識はあったのですか?

町田:それはなかったですね。

人物研究会:個人的に文章を書くようになったのは曲を作り始めてからということでしょうか?

町田:いや、文章を書くようになったのはもっとあとですね。いわゆる散文的なものを書くようになったのは30代になってからですから。歌詞、を書くようになったのは曲を作り始めてからです。

人物研究会:音楽活動を始める前に、何かまとまった文章を書いたりとかは。

町田:そういうのはないですね。

人物研究会:音楽以外の表現活動は何かやっていましたか?

町田:特に表現的なことはやっていなかったですね。本を読むのは好きでしたが、特にそれ以上のことはなかったですね。

人物研究会:80年代後半から90年代初めにかけて徐々に町田さんは音楽から文学の方面へ表現の場をシフトされますが、その経過はどういったものだったんでしょうか。

町田:僕なんかどっちかというと貧乏な子ですから、金持ちの方でないですから、音楽的素養はなにもないわけですよ。なのになぜ音楽やっていたのかそっちのほうが不思議なわけですよ(笑)。つまり、例えば中原中也なんかは、あの時代の大学生なんかは皆同人誌を作るんですよ。で、詩を乗せたり小説を載せたりするわけです、文学青年たちは。そんなもんだと思うんですよね、結局。だからバンドぐらいしかやることがなかった。もし僕が例えばもっと前の生まれだったら、同人誌みたいなことをやっていたと思うんですよ。ちょっと前だったら、10年ぐらい前だったら学生運動みたいなことをやってたと思うんですよ。つまりはお調子者っていうことですね簡単に言うと(笑)。だから積極的に自分から選び取ったというよりは、そういう時代だったんだけど、でも元々自分の中にやっぱり日本語によるなにか表現をやりたいという気持ちがどこかにあって、それがその後の活動につながっているんだと思います。それがたまたま作詞というポジションだったんでなんとなくそういう習慣がついたというか、文字を書くことが習い性となったというか…(少し考える) その前に素で読書体験というものがあって、プラスいわゆる海外のロックカルチャーをそのまま真似したようなことはやりたくないっていう自分の気持ちが合わさって、ちょっと変わった表現になったんでそれを見た編集者とか周りのひとが「キミなかなか面白いね」って言ってくれて原稿を頼まれたという、そういう流れだったように思います。

人物研究会:最初からそれ(文学)に行き着こうと思っていたというよりは自分の中の諸要素がたどり着いたということでしょうか?

町田:そうですね。

4.古典作品と芸能、作品における関西弁について

人物研究会:町田さんの文章をお読みしていると、古典の造詣が深いように感じます。古典を集中的に読んでいた時期があったのでしょうか。

町田:(食い気味で)造詣浅いですね、ええ。おそらく、普通に例えば宇治拾遺物語を読む理解度でいうと普通の大学生以下だと思います。ただ、まあなんとなく…(しばし考える)、まぁなんかわかるところがある、直感的にわかるところがあるということです。

人物研究会:なにか感じることがあったんですね。町田さんだけが感じ取れる何かが。

町田:そうですね、ひとつは耳の仕事っていうか音感的なもの。つまり文字を読んだときに同時に、芸能が好きでしたから…。

人物研究会:落語とか。

町田:落語なんて、浪曲とか漫才とかそうですけどやはり芸の口調というのは、例えば僕が子供のときに60の噺家がいますよね。子供の時60の噺家っていうことは、10歳のときに60ということはそれだけでその人は50年前の音を聞いてるわけですよ。僕から見たら。だから絶対に聞こえないはずの音をその人の記憶を通じて音声で聞くわけですよ。50年前の写真を見ても音は聞こえないじゃないですか。でも落語家ってそのままライブで喋ってる50年前の音が聞こえるわけですよ。でもその人が50年前限定かっていうとそうじゃなくて、当たり前ですけどその人の師匠はもっと歳上なわけですね。であれは口で教えますから、昔の人の喋り方が繋がって伝わってるわけですね。河内音頭とかもそうですけど。そういうのを好きで聞いていたんで、しかも関西なんでいわゆるその、だいたいその残ってるものって京都とかでしょだいたい、大阪とか。まぁ京都とかね、文字で書かれた物が残っているなんていうのは、成立が。そうするとかなり古い音も結構音で聞こえるというのはあるんじゃないかなと思うんですよ。だからいわゆる文献研究的に文字だけ読む、見ててもやっぱり限界はあると思うんですよ。だからそういうようなことは、もちろんそれも大事なことですが。まぁあとは、小説家ですからあまり厳密なことを問われないので(笑)、間違ってたら「すいません」ていえば終わるので(笑)。

人物研究会:文章を書くときはリズムを、声に出して読んだときの調子を意識して書かれますか?

町田:いや、うーん、発音というよりはやっぱり、そうですねぇ、まあ難しいとこですけども、ただその言葉の意味だけで伝えようとすると読みにくい文章になったりしますよね。まぁ意味だけ、意味も必要ですけど、意味と音と両方を両睨みで文章を綴っていくんですけど、そんなのいちいち考えてたら全然進まないので、それは直感的にやっていくしかないんですよね。直感的にやっていくうちに、毎日やっているとだんだん自分の知らない間にそういう力がついてくるということですね。まあ「勘」ですね。

人物研究会:町田さんの作品には関西弁が頻繁に使われていますが、その効果はどういったものがあるんでしょうか。

町田:関西弁を使う場合はふたつあって、ひとつはかぎかっこの中で使う、これは普通によくありますけど、いわゆる叙述の部分、地の文の中で関西弁を使うときは結構難しくて(笑)、これはね、そんなにはすぐにはできないと思いますね、えぇ。で効果っていうのは、もちろんそれは何らかの効果があるし、だから今度三島賞があるんですけど、それに九州弁みたいなのが出てくる小説がありまして、それの選評に書いたんですけど、要するに方言が出てくるじゃないですか小説に。それが博多弁で書かれたとするじゃないですか、それを東北弁に変えて成り立つか成り立たないかってことが重要なんですよ。博多弁で書くんだったら博多弁じゃなきゃいけないんですよ。それで「これ山形弁に置き換えても成立するよね?」っていう場合、じゃあそれはニュートラルな普通の文体でいいじゃないって話なんですよ。「いや舞台がそうですから」って、舞台は変えりゃいいんだから小説はね(笑)。それは作者が自分が書きたいように書き進めるだけの推進力になっているに過ぎない。だから小説の中で方言を使うっていうのは意外にハードルが高いんですよ。

人物研究会:例えば石牟礼道子さんの小説には水俣弁が多く使われていますが、そういった方面からの石牟礼さんからの影響はありますか?

町田:石牟礼さんからの直接の影響っていうのはないんですけど、まさに今言ったようなのが石牟礼さんの小説にはあって、あれは水俣弁とか天草弁とか言われていますけど天草の人に聞くと「あんな言葉はない。あれは道子弁だ」って言うわけです。あれじゃないと成立しない小説をまさに石牟礼さんはお書きになったということなんです。あれは一つの極地で、まぁなかなか難しいんですがあれぐらいじゃないと方言を使う意味はあまりない。あるいは井伏鱒二井伏鱒二なんかすごいですね。我々じゃできない芸当ですよ。

人物研究会:町田さんは歌声が昔から変わっていらっしゃらないなとわたしなんか思うのですが、なにかボイストレーニングなどはやられているんですか?

町田:ボイストレーニングは一切やっていませんね。さっきから言っている音楽の練習も一切やっていないし、「黒人音楽みたいに歌うよね」っていうのがあるじゃないですか。「日本人なのに、まるで黒人が歌っているようだね!」っていうのが(笑)。あんま興味ないんですよそういう歌に。要するに、自分が誰々とそっくりに同じようにやっても意味がないというか。それが仕事だったら、それでお金もらえんねやったらやりますけど、最初からそういうことは目指していないというか。小説の文体とかでもそうですけど、誰かの真似をするというよりは自分のできることを自分のできるとこまでやるということの結果に過ぎない。お手本がないのがパンクなんですよね結局は。河内音頭なんかもそうで、河内音頭っていうのは「一人一流」なんですよ。要するに河内音頭を習いにいくってことはないわけですよ。河内音頭っていうのはどこでも夏になったら櫓建てて、でちょっといちばん村でいちびり(※関西弁で「やんちゃ」の意) な奴が俺がぁーって順番にやっていってそんで上手いやつとか下手なやつががおるわけですよ。それでみんな違うんですよ。歌は一緒なんですけど、節回しとか違うんですよ。やっぱり人間性が違うから、出てくるリズムも違うし、でもだいたい河内音頭河内音頭で、でも上手い下手はあるし人の好き嫌いもある。みんあ聴いて「こいつええなぁー」ってやつもいれば「はよひっこめ」てやつもいると。そういうことだと思うんですよね。51:35あまり、練習とかトレーニングとかいうのはいうのは、本来は必要ないことだと。

5.パンク

人物研究会:パンクという言葉や態度は今の社会において意味を持ちうるんでしょうか。

町田:今の時代パンクなんて無意味でしょうね。だってもういまパンクなんて言ったら、例えばいまここで僕が「俺ァパンクなんすよ」って言っても誰も信用しないやないですか。「普通やん」って知らん人から見たら(笑)。
もうパンクって言うとアレのイメージになってるでしょ。音楽で言っても今やアレのイメージになってしまってるから、だからなんの意味もないでしょうね。もちろん好きで聞く人には意味があるけど、社会的には、社会的には意味があるかもしれないけど、気の利いたことやろうかなて思うときには「あぁアレね」っていう、まぁひとつのジャンルに過ぎないでしょう。しかもかなりマイナーな(笑)。

人物研究会:そういったパンクが一つのジャンルになる前は、もっとパンクが生々しさを持っていたということなんでしょうか。

町田:上手下手、上手い下手があって、そこにプロが発生する。そしてプロに憧れるアマチュアが発生して、さらに上手い下手を言い出したりする専門家が現れたりして分野っていうのはひとつの認められた分野になるし、パンクみたいなダメなもんだったらなんか「すごいマイナーな人たちね」ってなるしっていうことなんじゃないでしょうかね。だから新しいものは常にわけわからんもんで、面白いもんっていうのはっていうことで、いろんなものがだんだんそうなっていくんじゃないですか。ジャズだって最初はね、遊びでやってたもんですから、それが今やすごくアカデミックなものになっている。

人物研究会:ジャンルというのははあくまで後付だと。

町田:そうですね。あとは手法とか技法が確立されてやってると人間はだんだん上手くなっていきますから、ひとつ曲芸的なものに、曲芸的に上手い人が出てきますから(笑)。曲芸的に革新的な人がいる間は生きてるんですけど、ジャンル的に新しいものが何もなくて上手さだけが曲芸的に突出していくと「100m何秒でで走りますか」っていうのと同じ話になってくるわけですよ。だんだんそうなっていく。しかもそれが輸入文化だったりすると余計話がややこしくなって、単なるモノマネ大会になったりする。

6.自身の文学作品、ほかの作家について

人物研究会:小説や作品の中で今まででいちばん書き上げるのに苦労した作品はなんですか?

町田:とは言うものの、そうやってやってる中でときどき変なものとか面白いものが出てきて、独自性が次第に生まれてくるというのは日本文化の特質で、つまりいろんなものを中国とか大陸から輸入して自分たちで咀嚼しているうちにだんだん自分たちの文化になってくるということの繰り返しですから、日本文学も明治時代にやっぱ文学もnovelっていうのを、西洋のnovelっていうのを俺らもやらなあかんのかっていう、それまで色恋だったものを「恋愛ってやらなあかんらしいぞ」って話になったりとか(笑)。「やり方わからんねん恋愛の」みたいなそんな(笑)。まあそんな中で面白いものが出てくる。僕なんかがやってるのもそんなひとつなのかもしれないですね。したがって苦労したというのは全部苦労するんですけど、まぁただ小説家が「苦労して書きました」っていうのも、なんか無能な感じがするんですよ。「お前何をこれ苦労して書いてん?」っていう、「ぜんぜんおもろないやん」みたいな(笑)。「ちょっと苦労の方向性間違えてるんやない?」ってそういうのもありますからね。「すごい練習してるけどやり方間違えてるから」ていうのが。ただだからそれはさっき言ったようにある程度メソッドが確立されていれば、一定の学校に通ったりしてトレーニングを受ければ確実に技術というのは上達するはずなんですけど、でも小説の本質的な部分ってそういう練習してできるようになることじゃないですから、まあ難しいよねっていうことです。

人物研究会:技術は遅かれ早かれ完成しますよね。完成したあとに何を表現するかという。

町田:結局はそうなんですよね。最終的には、いくら文章がうまくてもつまらないことしか書いてないやつはつまらないですよ中身が(笑)。やっぱり人間が最後は出ますから。あるレベルを超えると。あるレベルまではね、思いつきとかそういうので書けるんですけど。ある水準を超えるとそいつがどういう奴かの話になってきますから。結局そういうことなんですよ。だからある程度文章の書き方は教えることができますけど、小説の書き方というのはあまり教えられない。手品と奇跡の違いなんですよ。手品にはタネがあって小説にはタネがない、奇跡だってそう。でも、奇跡を起こそうと思っても奇跡は起きないですよね、たぶん(笑)。じゃあどうやって奇跡を起こすかってなにかきっかけが必要で、じゃあやっぱ最初は手品しようかなと思うしかないんですよ。でも手品しようとして手品が成功すると決して奇跡は起きない。だから手品ばっかりいくらうまくなってもいい小説は書けないんですよ。奇跡は起こせない。でも手品はやらなければいけない、やろうとしなければならない、どこかまでは。

人物研究会:町田さんは大衆に受け入れられることか、自分を表現することかどちらが大切だと思いますか。

町田:それはふたつがはっきりと分かれるものでもなくて、自分のやりたいっていうことが純粋な、侵されない形で自分の中にあるかって言うとそうでもないんですよね。「私はこれをやりたい」っていうのがはっきりしてればそうなんですけど、ひとが「すごくいいよ」って言ってくれて「あっこれかな俺がやりたかったのは」って思ったりするんですよ正直に言うとね(笑)。でなかなかうまくできたなって思ってもひとが「面白くないな」って言うと、信頼できる人ですけど「あぁそうか」っていうのもあるし、それだけじゃないですけどある程度はこんなことやりたいなっていうのはもちろんあるんですけど、ここまでは自分のやりたいこと、ここからは人が聞きたいことってはっきりと分かれているんじゃなくて交わっている部分もある。だからどっちも必要なんでしょうね、自分のやりたいことと、ある程度人にウケたいって言う気持ち、ある種のスケベ心がないと、なかなかおもしろくなっていかない。人間、自分だけではなかなか決まらないっていうか。面白いか面白くないかすらわからない。

人物研究会:小説を書くときはある程度原型やプロットを決めてから書くんでしょうか。

町田:それは長さにも依りますけどね。短いのであればある程度はきっちり決めてやりますけど、長いものは大体だけ決めておいて、あとは出たとこ勝負ですよ。

人物研究会:最近読んだ本で面白いものはありましたか?

町田:いろいろありますけどね、こんど井伏鱒二の話をするんですけども、それで改めて井伏鱒二を読んでるんですけどやっぱり面白いですね。

人物研究会:どの時期の作品ですか?

町田:彼は大正の末期から書き始めて、80、90いくつまで生きましたからね。だから80年代中頃僕らがまだ若いとき井伏鱒二生きてましたよ。だいたい何読んでも面白いですけどね。すごい独自。いわゆる時流に群れないというか、そういう感じがあって面白いですね。当時の周りの感じと、自分のやりたいことが決定的に違ってて、「なんか、なんで?ぜんぜんあかんわ」みたいな感じが鬱屈しててものすごく詩的で美しいんですよ、初期の頃は。後期になるとまだ別の味わいが出てくるんですけど。

人物研究会:先ほども名前が出たのですが、石牟礼道子さんについてお話を伺いたいです。

町田:切なさ、切ないって言うと軽いんですよね。もっと激しい、悶え苦しむような感じ。存在そのものの悲しみみたいなものに対する感受性ですよ。日本の文学の中であまりそういう人はいないんですよね。いそうでいない。皆自分の根本の悲しみは大声で言うんですけど(笑)。そのへんに生えてるどうでもいいような草とか、そのへんに倒れててるもの、「あッなんか死んでるねー」って通り過ぎていくものに対する感受性が自分の中に入ってくるんでしょうね。そのへんが独特ですよね。井伏鱒二なんかにしても山椒魚は悲しいって話だったでしょ。井伏鱒二ですら「私」をかなり離れて書いてるんです。「私」、私小説的な「私」を一旦横に置いて書くっていうのが井伏鱒二の良さなんですけど、それにしたってどこかで自分とつながっているんですよ。

人物研究会:太宰についてどう思われますか。

町田:好きですよ。面白いですよね。自分の悲しみ、しかないですよね。でもそれをしてはいけないというわけではなくてね、それが面白いか面白くないかなんですよ小説って。「これをやればいい」ってもんじゃなくて、例えば石牟礼さんであるということをやろうとしてできたものがつまらなかったら小説としてなんの価値もないんですよ。

人物研究会:「悲しみ」っていうと中原中也とか。

町田:だから中原中也みたいなやつはいっぱいいると思うんですよ。でも彼は詩がいいんですよね。

人物研究会:中原中也の詩で特に好きなものあったりしますか?

町田:割とこういうインタビューとかやってると、「一番好きな人を3人挙げてください」とか「その人の中で一番好きなものはなんですか」とか「自分の書いた小説の中で一番好きなものはなんですか」とか順列的、順位的なものをよく聞かれるんですけど、それはこの10年ぐらい、5年ぐらいで急に増えてきた現象で、これはいろんなメディアの状況がそうなってるのか、とにかく順位をつけるっていうのが難しいんですよねこういうことは。「一番はなんですか」とか言ってもそれは全然本質を捉えてないから、適当に言ってもいいんですけど、それを聞いたからといっておそらくそれを聞いた人もそれを文字に起こされたものを読んだ人も得(う)るものは何もないだろうなと思います。それは中原中也ぜんぶを自分で読んだ上ではないとそれはわからない。だから「あなたが一番好きなものはなんですか」って僕が答えて「あぁこれか」って言って読んでも、その人は中原中也をわからない。一冊読んだだけでは何も読まないよりももっとわからないかもしれない。あるいは、「一番売れてるのはなんですか」って聞いて読んだりとか。「ナントカ賞取ったのはなんですか」って聞いて読んでもやっぱりダメで。やっぱり自分で全部当たって、全部当たれなくてもなんとなくでもいいからバラバラと自分で全部見て、全部じゃなくてもいいんですけど自分で見て、見取り図を、距離感を自分で構成しなければならない。距離感ですね、作品と作品の。上から順番に並べて縦に順番に並ぶものじゃないですから。そこを、若い人には知ってほしいですね。順番じゃないです。1,2,3,4,5っていう。バラけてるんです。みんな物事っていうのは(笑)。それでそれぞれ関係があるわけだから、一個だけ取り上げて絶対的に見てもそれはわからないです。

人物研究会:「どれが役に立つか」という価値観に世の中が侵食されている。

町田:必ず聞かれるんですよね。

7.「ことば」

人物研究会:長い間こういったインタビューをやられてきたと思うんですが、インタビュー自体に対して思うことはありますか?

町田:インタビューに対して思うことは、今日はあまり聞かれなかったですけど、一番困ることは「なんでだ?」って聞かれることなんです。例えば『湖畔の愛』という小説を書きました。インタビューに来ます新聞記者が。「なんで書いたんだ?」ってもっと丁寧に言いますけど突き詰めていうと「お前なんでこれ書いたんだ?」って言うわけですよ。もう一言で終わるんですよ「書きたかったから」に決まってるやんか、「殺すぞコラ」ってそれで終わりなんですよ(爆笑)。じゃあそれでさよなら~で「書きたかったから」で終わりなんですけど、絶対にそれじゃ帰ってくれないです。で、なんか「今の世の中がこうで、こういう事件があったから、それがあったから自分はこう思うし昔のこれにつながってるから云々」って、一番いいのは「社会のこういうものに危機感を覚えて、警鐘を鳴らすつもりで書きましたッ」って言ったらもう大喜びで「それを待ってたんすよ!!」みたいな(爆笑)。それで、こないだの三島賞、古谷田奈月さんが獲られましたけど、その作品に対して僕は全然そう思わなかったんですけど記者が「フェミニズムの観点から書かれたんですよね」って「いやそれ違うから」みたいな。必ずそういうふうに言っちゃうと、記事が書きやすいと。「なんでだ?」っていうのが一番質問としてわかりやすい。あとは、雑誌とかでミュージシャンに対する質問だったら「幼少期とかにこういう事があって」みたいな(笑)。「両親が離婚して」とかだったらわかりやすいし(笑)。「失恋して」とかね。女性シンガーとかだったらそれがあるし。そういう感じ。だからみんな早く帰ってほしいからそれ言うんですよ。訊かれる方は。検察とかの取り調べを受けてる犯人が、なぜやってもないのにやったかっていうと、人間は何かしらコミュニケーションが成り立ってないと不安なんですよ。絶対にNOって言い続けられないから「どうする、どう答えてほしい?」ってどうしてもなるんですよこれが。人間の特質としてわかり合いたいという気持ちがあるから。「こう言ったらいいかなぁ?」みたいな、「ふたりで協力してストーリー作っていこうよ」みたいになるわけ(笑)。そうすると思ってもないこと言うわけね。でまたそれが書かれるから皆それが事実と思って、既成事実となって歌枕みたいにみんなそういうもんみたいになってきますよねなんか(笑)。「たらちねの」言うたら「母でしょ」みたいな(笑)。それが蓄積されて陳腐な物語がみんなに染み付いているというか。でも僕もその中に絡め取られているからなかなか否定はできないんですけど。インタビューって面白いのは、質問者の質問があってそれに答えてるのをよく読むと、答えてる奴がものすごいバカに見えるわけ。で、こんど同じやつをじゃあ書面インタビューしてくださいつって質問に答えるわけじゃないですか。同じように答えたら訊いてる奴がすごいバカに見えるわけ(爆笑)。同じ質問でも。そういう性質がインタビューにはありますね。インタビューは難しいですよ。インタビューで誰も本当のことは言わない。自分の聞きたいことを言わすのが上手いインタビュアーって訊く方は思ってるけど、そんなものはその人がそう思ってるってだけで。「じゃあ一人でやれよ俺は小説書くし」って「人を巻き込むな」って(笑)。

人物研究会:ひとは言葉を通じてどれぐらいわかり合えると思いますか?

町田:言葉を通じてしかわかり合えないでしょうね。人間は。なぜなら言葉を通じないと人間は自分の思ってることを絶対に伝えられないじゃないですか。そんなことないか。歌ったり踊ったりとか。

人物研究会:そこにもある程度言葉は介在してるんでは。

町田:まあそうですね。結局言葉で説明するしかないんですね。

人物研究会:言葉が足りないと、現実が言葉に寄っていってしまうとか。

町田:だからその現実がないんですよ、言葉によってしか。つまり私達が現実だと思ってるのは、見てるだけだから、頭で思ってるだけだから、共有しようと思うと言葉にするしかないでしょ。あなたの思ってるパンクと僕の思ってるパンクはぜんぜん違うかもしれない。じゃあパンクって何か話し合うしかないでしょ。そっからぜんぜん違う議論が出てきたりする。だから面白いんですけど。そんでそれをひとりで頭の中でやってるキチガイが小説家なんですよ。

人物研究会:ことばを頭の中でどのようにまとめていらっしゃるのでしょうか。話すようにとかそのようなかんじでしょうか。

町田:言葉になった時点で違うものになっていますよね。痛みとかそういうものはなかなか言葉にできないんですけど、味がうまいとかそういう、音楽を聞いて気持ちいいというのはそう言ってるだけでなにも伝わってないじゃないですか。「いい気持ち」の「いい」はぜんぜん分かち合えないから。やり取りできるのは言葉しかないんですよ。交換できるのはそれしかない。しょうがないからそれでやりましょうっていうことです。だからそういう意味で僕は暴力でもいいんですけど、ただね、どうなんですかね。K1とか観てたらいい試合した奴らが最後あんだけ殴り合ってたのに笑って称え合ったりしてるし(笑)、「なんやねんこれ」って思いますけどね(笑)。

8.表現するということ

人物研究会:小説家はひとりでできますが、複数でやるバンド、音楽との違いはなんでしょうか。自分のやりたいことを伝えることの難しさはなんでしょうか。

町田:音楽はね、アレは特殊であれはもう禅の修行みたいなもんなんですよ。やってる瞬間は悟ってるんですよね。もちろん上手な場合ですよ。全員が同じぐらい上手な前提ですが。でなにかの達成があるということですよ。初めて集まった下手くそ同士だとそうはならない(笑)、殴り合いになりますよ。「お前がそんな下手くそやからこんななんねん」「お前こそなんやねん」ってそうなるし、言わんでもそう思ってやってるからグチャグチャになりますけど。そうじゃなくて同じぐらい上手な人が集まって、上手いやつがいると上手いやつが下手なやつに合わせることになるんで難しいんですが。同じぐらいである達成があると、人間の自我がなくなるっていうか、悟ってる状態になるわけですよ。僕はいわゆる禅とかやったことないので推測ですけど、修行で得られる悟りっていうのはそういうものじゃないですか。

人物研究会:ちょうど自我をなくしたいと思っているところで(笑)

町田:それは難しいですね。修行しかないですね。猫とかは「なんで?」って言わないんですよ、痛くても。痛いとは思うんですよ。そんで悲しいとも多分思ってるんですよ。でも「なんで?」っていう理由を伴わないんですよ。自我がないんですよ。人間もある年齢まではないんですけど、そのまま死ねればいいんですけど、でもなぜか脳の構造かなんか、詳しいことは茂木(健一郎)さんか誰かに聞かなわかりませんけど、あるところから自我が生まれてくるんですね。そうすると死ぬのが怖くなってきたり、自分だけええ目したいと思ったりとか、そうなってくるんですよ。だから、修業によって自我をなくすのか、「絶対他力」、親鸞が言うてるみたいに、自分では一切判断しない、「阿弥陀の救済に任せます」って言ってひたすら称名念仏を唱えることによって自我を超越するのか。あるいは、イエス・キリストが言ってるみたいに天の父にすべてを任せて人を裁いてはならないと言ったり、なかなかうまくいかない。

人物研究会:若者がバンドをやったりするのは自我の苦しみの現れなのかなと。

町田:いや、自我にはずっと苦しめられますよ。歳行っても。例えば、自分が本を出しますよね。で自分以外が本を出してそいつが売れてたり持て囃されてたりすると「クソー腹立つな」って思ったりする。それは自我に苦しめられてる(笑)。「俺のほうがええのになー」とか。あるいは「俺の意見をもっと入れろよ」とか。そういうのは自我に苦しんでるということでしょう。

人物研究会:そういった自我をテーマにした作品が多いと思うのですが、そういったことを含めてこれからも表現していこうという。

町田:いや、表現というよりは、僕は小説を書くときは表現っていうのはあまり考えていないんですよ。何を考えてるかと言ったら、全体を通してもそうだし、場面場面でもそうですけど、書いてるとき、特に長いものを書いてるときは、その場面場面のことを考えてるんですけど、その場面場面を面白くすることなんです。面白くするといろんな考えが浮かんでくるんですよ。そうすると、その書いてることがまた次の原因になるんですよ。今思いついたことが。その原因について、当然なにか生じますよね、結果として。その生じることをまた書きますよね。そうすると結果が生じるじゃないですか、書いたことによる。誰か死ぬとか、誰か笑うとか。そういうことがまた次の出来事の原因になるんですよ。そうやって結果が次の出来事の原因になって、その原因が生んだ結果がまた次の原因になっていく。そういうふうにして小説というのはつながっていく、読者が読んでいくわけですね。それが全部バラバラだったら意味わからないでしょ。「急になんの関係があんねん」って(笑)。そういうふうに筋を書いていくのが面白いわけです。丁寧に書くから面白いんです。面白くするっていうのはそういうことです。だからあんまりこれを書こうとか、主題っていうのも最初は思いますけど、ときどきで考えてるのはいかにそこを、原因から結果に至る1ユニットをどれだけ面白くするということです。そこで面白くないとあとの展開が勢いのあることにならない。だからこうやって普通に喋ってるシーンを書いたとしても、「こんなん退屈なシーンやんけ」と思うかもしれないけど、こういうのを一生懸命書けば面白くすることもできるんですよ。なにもここに銃持ったやつが乱射せんでも、これだけでも、丁寧に書けば何かの原因になるんですよ。

人物研究会:頭を使って疲れるという感じはあるんですか?

町田:頭はかなり使っていると思いますよ。でも頭を使うと言っても普段使う使い方ではなくて、それとはちょっと違う使い方なので、そんなに疲れないんじゃないですかね。頭を使って疲れるというのはやってて嫌なことをやるから疲れると思うんです。考えるのは楽しいので、あまり疲れないですよね。

人物研究会:ひらめきとかそういうものはありますか?

町田:もちろんありますよ。やっている中で。ただ作業とひらめきは常に背中合わせで、作業を細かくやればひらめきも出てくるし、ひらめきがあるから作業をきめ細かくすることもできる。そういうものでしょうね。

人物研究会:なにか新しいものを発想するのは好きですか?

町田:それは世間的にですか、自分的にですか?

人物研究会:自分的にですね。

町田:毎回新作を書いてるわけですから新しいといえば新しいんですけど(笑)。中には「これもうやったよね」っていうのもあるけど、同じことでもやって面白いときってあるじゃないですか。サーフィンやってる人って毎回面白いんですよ。見てたら「何コイツおんなじこと何回もやってんねん」って思うんやけど、微妙に違うわけです。新しいことやるっていうのは、じゃあサーフィンやめてウインドサーフィンやるかってそういうことだと思うんですよ(笑)。多分どっちも面白いんですよね。何かぜんぜん違うスキューバダイビングやっても面白いと思うしね。スキューバダイビングやったことないんやけど。

9.「笑い」について

人物研究会:関西の笑いと関東の笑いってけっこう質が違ったりすると思うんですけどそのあたりについてどう思われますか?

町田:微妙には違いますけど、やっぱり土地が違うから違うでしょうね。僕は馴染みっていうか関西の方の笑いの本音を出す感じっていうか、ズバズバ言う感じとか、立場が上の相手の人に、立場が下の人がついボロカス言ってしまうとかそういう笑いは好きですね。あとは人の容姿をメチャクチャ言うとかそういうのも好きですし。なんでそれが面白いかって言うと普段そういうことは言わへんしね。そういう本音で言う笑いは好きですね。東京の笑いはちょっと洒落てるじゃないですか。「粋」とかね。まあ「粋」も富岡多恵子さんに言わすと難しいんですが。いわゆる九鬼周造のはちょっと違うみたいな、まあ難しいんですけど。

人物研究会:お笑いの審査員などやられることもあると思うんですが、いろいろなコンテンツを見るときに、笑えるかどうかっていうのは意識されますか?

町田:いわゆる太宰治なんかもそうですけど、やっぱり面白いことをやろうとすると、一段下に見られるところがあるんですよ。そりゃ面白いほうがいいに決まってるとは思いますけどね。

人物研究会:滑稽さ・面白さと笑うことって別じゃないですか。

町田:そうですね。笑わしに、っていうよりは、文章だったら文章に一つの実感というか人間が生きてるひとつの感覚とか感触を出そうとすると自然に笑いが増えてくるんですよね。石牟礼さんでもしっかり読むと結構笑いが入ってるんですよ。みんな石牟礼さんと思って読むから結構真面目に読むんですけどふざけて書いてるところもけっこうあるんですよ(笑)。

人物研究会:お笑いで、ツボにはまったものとかありますか?

町田:ツボですか?うーん…。あぁでも笑いをやってる人って、面白い人って言葉に対して感受性が鋭い人が多いですよね。だからふたつあって、やっぱりあれは文体っていうか、声を聞いているところもあるんですよ。同じこと言ってても、漫才でも二人のコンビネーションによって、すごく面白くなったりする。「間」ももちろんありますけど、声質って大きいんですよね。声質の組み合わせで面白かったり面白くなかったりするんで。けっこうね、意外に中身は聞いてないというか「なんでこんなしょうもないんやろ」ってやつでみんな笑ったりしてますからね。中身は関係なくてその人らの声が面白かったりしますからね。それが文体ってことだと思いますけどね。

人物研究会:お笑いにおける声であったり言い方が小説の文体のような固有のものであったりすると。

町田:例えば、濁声のやつと甲高い声のやつがいたとしますよね。それが両方だみ声だとキツイなあっていうことだと思うんです。そういう無限の組合わせがありますよね。文章だって同じじゃないですか。同じ言葉を使ってるわけですから、日本語としてはね。そんな語彙が特別にみんなそんなあるわけじゃないから、だいたい似たような何千かの言葉を組み合わせて使ってるだけですから、その組み合わせがいかに直感的に洒落てるかどうかとか面白いかっていうことで、だからダサいやつはダメなんですよね。声の組み合わせにそんなバリエーションはないですけど、言葉の組み合わせっていっぱいありますからもうちょっと感覚の操作が重要になってきますよね。まあそれ以前に文章の例だと、評論なんか特にそうですけど言ってる内容がつまらんヤツが多すぎますけどね。文体以前に。

人物研究会:やはり批評に対して文句がある場合が多いのでしょうか。

町田:僕はそんな批評はされないですけどね。書評ならありますけど、まとまった評論はそんなにないですね。まぁ、取り上げてくれるのはありがたいですけどね。「こういう読み方があったのか」とか「それは作者として全く考えてなかったけど言われてみればそうだなあ」とかはありますね。ただ、プロが書いたときでもときどき、「お前、もうちょっと脳、頭使ったら?」っていうのもありますよね。ときどきね。「これじゃあAmazonの素人のレビューだよ…」っていうのがありますよ。稀に。

人物研究会:ご自身でAmazonのレビューを見られたりするんですか?

町田:Amazonのは時々見ますね。自分のは見なかったりしますけど、書評とかやるときにどういうふうに普通の人が捉えてるんだろうとか知るために、プロのと合わせて見るときはあります。

10.『告白』と『苦海浄土

人物研究会:作品の話になります。私はこの『告白』という小説が大好きなのですが、私はこの作品は石牟礼道子さんの『苦海浄土』と同じ構造を持つ作品だと思うんですね。つまり『告白』の主人公は近代と前近代との間で自意識によって言葉を失い、『苦海浄土』は前近代の世界に生きる人々が近代に蹂躙され、その近代がもたらした水俣病によって言葉を失う人々がいるわけです。しかもふたつとも登場人物が方言を話す。そのあたりは意識されましたか?

町田:例えば東京に住んで大学に通ってると、大学には同じような人間がいっぱいいる。出版とかマスコミとかで働いてるとそんな奴ばっかなんかなって思ってしまうけど、だいたい前近代ですよ地方なんか(笑)。あるいは高円寺あたりでも底辺のロックカルチャーたち、さっき言ったような家が金持ちでアカデミックな音楽の教育を受けたような人じゃなく、底辺の人。前近代ですよ本当に(笑)。だからそういう苦しみは未だにあるし、僕自身もやはり自分の思ってることを語ることばがなくてずっと苦しんでいたということがありますから。小説を書き始めてやっと自分の語ることばを得たという感じがあります。音楽だけやってたときは「お前は何を言ってるかまったくわからん」と。

人物研究会:小説を書き始めて「自分の言葉が表現できた」という感触があったと。

町田:僕はいわゆるアカデミックなトレーニングを受けてもないし、ただ自分で本を読んでいただけなので共通の喋り方がないんだけど、文章的な言葉で喋るので、周りはみんなロックで「お前は何を言ってるかわからん」ということなんです。まぁ、今でもそういうとこはありますけど。

11.今の音楽について思うこと

人物研究会:音楽活動は、歳を取っていっても続けていこうと?

町田:君らの歳ではわからんと思うけど、やっぱり年齢的な限界は…ある程度になったらしんどくてできないということはあると思いますけど。単純に病気でできないとか、あとは寿命との闘いですね。

人物研究会:できる限りはやっていこうと。

町田:できる限りというか、もちろん経済的な問題もあって、いろいろな問題もありますけど、今音楽は気に入ってやってるんで、今の形でもっと自らの研鑽を積んでですね、さらなる達成を目指したいと考えています。今よりももっと中身のいいことをやりたいということですね。

人物研究会:一緒に音楽をやるメンバーが変わるのは、それぞれやりたいことがあったらやりたい人でやる、という意識の現れでしょうか。

町田:世代的には、バンドの世代ですから、中原中也の世代の人が同人誌を作ったように、やるとなるとバンドになっちゃうんですよね。バンドってある種のチームとしてやらなきゃいけないんで、みんなそれぞれ自我の問題とかいろんな問題がありますから足並みが揃うときも揃わないときもあるんですけど、別に最初から解散しようと思ってやってるわけじゃなくてなるべく長くやっていきたいなというふうには思っていますけどね。諸般の事情とかいろんな事情は当然ありますよ。バンドっていうのは宿命的に長くできないというのはありながら、長くできないかと思ってやっています。今やってるバンドはメンバーも同じぐらいの歳で、色んな経験を経てきてますから長くできそうな気はしています。

人物研究会:今でも音楽を新しく聞くということはしますか?

町田:いちいちそんなことも絶えてなかったんですけど、最近は強制的っていうわけではないですけど例えばTwitterとかで「これおもろいな」って思ったらパッとクリックするだけでその音楽が聞けるじゃないですか、その中で面白いなと思うのはあります。ただやっぱり、いわゆるいい音楽っていうのは世の中にたくさんあるし、「これを聞かなくてもいいか」って思えるんですよ(笑)。素晴らしい音楽っていっぱいあるから、もうありすぎるぐらいに。だからやっぱりいちばん気になるのは、日本語で歌っている音楽で、日本語で歌のある音楽で、一体どんなことを歌っているのかと聞いてみたくなりますね。

人物研究会:何を歌っているか歌詞に着目というか。

町田:着目ってほどじゃないんですが、もし聞くとすればってことです。いい音楽っていっぱいあって、そのとき聞いていいなと思うんですけど、例えばなにかダウンロードして何度も繰り返して聞くということをしないといい音楽というのは聞けなかったんですけど、今はそんなことをしなくても常にいい音楽を聞けるっていう。これが幸福なのか不幸なのかわからないんですが。「どこの誰さんがやってるんか知らんけどええなぁ」っていう。それに唯一引っかかりがあるとするならば、ことば。音楽って抽象的なのでいいな、しかないんですけど「この人はどういう思想をもってるんだろう」というのがひとつの興味のきっかけになって、演奏している人への興味になっていって、音楽で終わらないという。その一回だけで終わらない、続く。他も聞いてみようかなってなることもあるかもしれない。

人物研究会:愚問かもしれないんですが、若いアーティストで興味を惹かれた人はいますか?

町田:うーん、そういう人は、ないです(笑)。

人物研究会:歌詞を通してその人に興味が沸くということですか?

町田:そこまで行く、っていうことですね。いい音楽だけならいっぱいあるじゃないですか。だからその人の名前を一生懸命覚えて次また聞かなくても、いい音楽がいっぱいあるということなんですよ。申し訳ないですけど。それぞれみんな一生懸命やっているからこういう事言うと申し訳ないんですけど、でもこれは褒めてるわけですよ。貶すんじゃくて。「とてもいい」、けどおなじぐらい同じものがいっぱいあるという(笑)。そういうことです。

人物研究会:絶対数が増えすぎて、聞くもので自分を表現しようとしている若者が多いように思います。

町田:それは、一種のセレクトする文化ということなんでしょうかね。昔で言うなら、DJと称して音楽を掛けるだけで商売になるなんて誰も思ってなかったですからね(笑)。結構稼げる職業にいまやなっているという。

人物研究会:音楽を聞くときにはやはり人間性や感情を重視して聞くと。

町田:数が多くて追いきれないですけど、その人に興味を持つならばそこだということじゃないですか。どういう思想を持ってどういうことを歌っているかに興味があります。ネットの中ではね。実際にライブ見て「いいなー!」と思ったらそこでCD買って持って帰ることもできますけどね。ネットでは画面上でクリックしてるだけですから(笑)。手軽すぎるっていうか。

12.歳を取るということ、昔と今

人物研究会:今と昔はそういう意味で音楽を取り巻く状況がかなり違いますが、今と昔はどちらが幸せだったと思いますか?

町田:体験をみんなやっぱり求めてるんだろうし、伝説やストーリーを求めてるんでしょう。やはり時代が変わってしまったから、昔のことが尊く見えるんじゃないですかね。で、僕らの世代になると若い世代に対して、そういうことを使って自慢ができるんですよ(笑)。だからそういう自慢をして若い人に「すごいですねー」って言われたら「すごいやろ」ってちょっと自慢できるようになるっていうのが、事態の悪化に拍車を掛けてるというか(笑)。「大したことなかったな」って言う人っていないじゃないですか。それは自我のなせる技かもしれませんけど。だから僕もそうですよ。「昔はなぁー」ってすぐこう(笑)。いたずらに昔を懐かしがるのはよくないことです。

人物研究会:自分が伝説的に扱われることは嬉しいですか?

町田:ただ同世代でそういうことに乗っかって、自ら伝説を切り売りするようにして振る舞っている人を見ると見苦しいなって思いますけどね(笑)。自分はなるべく、気がついたときにはそういうことはしないようにしています。伝説らしく振る舞うのはやめよう、と。

人物研究会:パンク・ニューウェーブの界隈というのは結構そういった「伝説」の人がいますよね。

町田:意外に小遣い稼ぎできますからねぇ。そういうことをやりだすと表現者としては死んだということですから。あまり評価されなくても、今やってることをやりたい。昔の曲をやるとお客さんはすごく喜ぶんですけど、20曲やるとしたら(昔の曲は)せいぜい1,2曲にとどめたいですね。10曲ぐらいだったら一曲もやりたくない、今の曲をやりたい。

人物研究会:私は去年吉祥寺で「汝、我が民に非ズ」のライブを見たんですが、今まで座ってたひとがアンコールで「つるつるの壺」をやったりすると急に立って盛り上がったりとか、そういうのが嫌でしたね。

町田:やはり人間、歳取ると価値観が固まってしまって、人間は自分が一番輝いていた時期で価値観が止まってしまうんですよ。だから自分が20歳のときにピークだった人はそこで止まるんですよ、価値観が(笑)。だから僕らの世代で言ったらバブルのときに良かった人はそこで止まってますよね。昔の価値観しか認められなくなったら、「あぁそこが自分のピークだったんだな」って思うんですけどそれを認識するとちょっと寂しいですよね。そしたら、歳行っても常に頭を柔らかくして新しいことを考えたり、興味持ったりしたいなというのがある場合もあるし、「ええねんもう俺は」と。「もうしんどいねんそんなん」っていったらそれはそれでひとつの生き方だし。僕は今でも現役の小説家ですから、やはり新作を書いてやっていきたいなと思ってます。生きてる以上は死ぬまで勉強したいなと思います。そこで止まりたくないと思ってます。

人物研究会:まだ自分の価値観が柔らかいうちはピークがきていないとも言える、ということですか。

町田:ピークって言うとわかりやすいんですけど、ピークって別に客観的に人から見ての話であって、主観的に定めるものじゃないと思うんですよ。だからそういうふうに決めるものではないと思います。例えで言っただけで。やっぱり、歳取ってやっとわかることってやっぱりあるんですよね。それはしょうがないです。10年ぐらい前まで「俺これ30で知ってたらもっと出世してたのになー」って思うことがりましたけど今はもうありませんからね。だから全部わかった時に自我からも解放されて死ねるのかなって思いますけどね。

人物研究会:そう言った考えの中で、新しく本を読むときはどう言ったものを読まれますか?

町田:僕は恥ずかしながら、そう言った本をあまり読まないんですよ。本を読むっていうことは、読んでそこに書いてることがわかったりわからなかったりするわけじゃないですか。そのわかり方の度合いとか深さっていうのはそういうことだと思うんです。今わかったと思っても10年後に読んで「あぁあのとき全然わかってなかったな」って思えるかどうかだと思うんですよ。20歳の時に読んだ本でその時わかったつもりでいいなと思っても、そのときはそのときのわかり方があったんですけど、それが40になって読んだときには「あんとき全然わかってなかったな」ってなるわけですよ。で60になったとき読むと「あぁ、ぜんぜんわかってなかった」ってなるわけ(笑)。だから結局わからない(笑)。あれでよく書評とか書いてたなって(笑)。そういうのが、今でも実はあるんですよね。そういうことだと思うんですよ。要するに止まらないっていうのは。20歳で止まらないっていうのは。「あぁあんときわかってなかった」って思えるかどうか。で最後は「なんもわからんかったわ」って思うかもしれんし。「結局何もわからなかった」ということかもしれない。

人物研究会:過去の自分の過ちは、そのときはそうとしか思えなかったという。

町田:間違ってたというよりは、わかってたけどわかり方が浅かった。例えばカップのことを分かるときに、カップしかわからなかったことを別の皿との関係性においてわかってくるとか、別の食べ物との関係性においてわかってくるとか。その関係がだんだん網の目みたいにつながってくるということです。ただ全然関係ないものなんだけど、「あぁそうだったのか、こう繋がってたのか!」ということがあります。

人物研究会:音楽でも文学でも、ご自身の作品を聞き返したり読み返すことはありますか?

町田:今やってることは、例えば練習の録音を聴くことはありますね。でも文章に関しては、発表したものに関してはあまり読み返すことはないですね。……じゃあそろそろフィニッシュでいいですかね。

人物研究会:最後に、私事なんですが今度INUのコピーをやるんですが、何か心構えはありますか。

町田:別に僕のような歌い方をしなくても、自分なりに解釈してくれたらいいんじゃないかなと。歌詞変えてもええし、まぁ本歌取りだと思って。

人物研究会:今の若者に伝えたいことはなんですか?

町田:僕は若い人っていうと、小説書きたい人とかに関わることが多いですからそういうことでいうと、小説を読みなさいということですね。読まないことには書けないことなので。すごく少ない仕入れで店をやってもすぐに行き詰まりますから。すぐに表現しようとするけど、ちょっとしばらく自重した方が身のためかと。僕だって書き出したのは30なってからですし、10年ぐらいは読む快楽だけを貪る時期でした。

人物研究会:音楽にも同じことが言えますか?

町田:音楽はわかりませんけど、考えてみれば僕は言葉の人で音楽の人じゃなかったなというのがあるんですよ。だから歌を歌っていても、音符を歌ってるんじゃないというのが最近わかってきたんですよ。台詞、言葉を歌ってると最近思っていて、音の人じゃないんで音のことはあまりわかりませんが、音楽をやりたいんだったらやはり練習しないといけないんじゃないかなと思います。

人物研究会:初期の音楽活動についてはそういう言葉の方面から考えられますか?

町田:昔のことは考えないですね。自分との連続性はありますけど、自分の表現としては責任は持てないっていう(笑)。皆が勝手に聞いて勝手に評価して、ひとつのアイコンみたいになってますから、今の僕にはあまり関係ないことだなと。

人物研究会:本日は貴重なお話をありがとうございました。