アグネス・チャン

 

 

プロフィール

アグネス・チャン(歌手、エッセイスト)

1955年生まれ。香港出身。トロント大学卒。

 

(以下、講演録)

 

2000年7月4日、アグネス・チャンの講演会を開催。歌手として広く知られているだけでなく、ユニセフ大使としても活躍中の彼女。今回は、6年ぶりに演歌で、新曲で紅白を狙っているというアグネスに、人生を語って頂くという大変贅沢な催しである。

 

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早稲田の皆様、こんにちは。アグネス・チャンです。本当です。今日は皆さんの人物研究会に呼んでくれて、田中角栄を始め、石原慎太郎さん、吉永小百合さん面々な方を研究してきた会というような事で、とても光栄です。かな? とっても光栄です。実は前々から楽しみにしていました。私のお友達も早稲田から出ている方がすごく多く、実は、結婚した人も早稲田のOBなんです。だから、何となくさっきも歩いていたら、「ああ、彼も若いときは、皆さんと同じようにこうやって歩いたり、女の子をナンパしたりしてたのか」と思って、とてもなんか興味津々です。でも、今日は本当に私について興味を持ってくれて嬉しいです。たぶん、私がデビューした頃は皆さんまだ生まれる前なので、私のどうして歌を歌い始めたのか、どうしてこういう生き方をするのかって、不思議に思うことも沢山あるかもしれません。今日は短い時間ですけど、一生懸命、最後まで頑張って話したいと思います。どうぞよろしくお願いします。

 

私は香港生まれで香港育ちです。どうしてあなたは歌を歌い始めたのですか、と。

私は6人4番目として生まれたのですが、小さい時はどっちかというと、すごく照れ屋で、自分の事あまり好きじゃない子でした。1番上は兄貴なんですけど、姉が二人いて、私、そして弟二人だったんですね。ちょうど3人姉妹がくっついて生まれましたので、よく姉たちと比べられたんですね。私の二人の姉とも、とても。まあどっちかっていうと目立った子だったんですね。

上の姉は、顔が優秀だったんですよ。要するに、なんか可愛かったらしいんですね。今は、もうそうでもないんです。小さい時は振り向かれるほど可愛い子だったらしくて、学校の中でも目立ちましたね。もう一人の姉は頭が良いとよく先生に言われて、ずっと一番だったんですね。香港にも、早稲田のような有名な、香港大学というのがあるんですけど、中々入れないところなんですが、彼女は卒業するときニュースになりましてね。女の子のくせに、って。香港大学の医学部から一番で、初めて女の子で卒業した人なんですよ。ねえ、嫌な存在でしょう?! 私、姉たち大好きなんですけど、でも小さい時、本当によく比べられた。同じ学校行ってましたので、先生にいつも「顔が似てないですね」とか「ちょっと成績に開きがありますね」とか言われて、すごく沢山コンプレックスを抱えてしまってね。本当はそういうこと気にしなくていいと思うんですよ。でもあんまり比べられると、自分が醜いんだなあって思って。成績だってそんなに悪くなかったんですね。でもね、あんまり頑張らなかったですね。あの姉たちが基準だったら、逆立ちしても及ばないんだろうなあって思って。

心理学の人がね、「子供たちはあまり比べないほうが良い。比べると照れ屋になって、自信を無くして、良いものを持ってても外に出さなくなる」って言ってたんですけど、本当だったんだなって思いますね。自分のことが、大嫌いになってしまったんです。周りのひとが、本当によく見えたんですね。みんなみたいに明るくて、お友達が沢山いたら私は変わるなあって、色々考えるような子になったんですね。

でも私はそのまま成長しなかったんです。

それは中1のとき、とても大切な出会いがあったからだと思います。ボランティアです。うちの学校は、ボランティア活動とかクラブ活動、色々認めてくれるんですね。私は遊び半分でボランティア活動に参加した。最初はチラシ配りで、ちゃんとした仕事は、身体の不自由な子供たちの施設だったんです。先輩と二人で行きましたけど、香港は狭いのに遠く感じました。二回バスを乗りついで、山道40分も歩かされた。

私たちが入っていくときに、ちょうど看護婦さんたちが出てきたんですね。私たちの顔を見かけて、いきなり大声で叫ぶんですね。「おい、お姉さんたちが来たわよー!」って。そしたら色んな建物の中から、色んな道具を使って自分の身体を支えて一生懸命やって来る子供たちが現れました。足のない子は、こんなちっちゃい椅子を胴体の下に敷くんですね。そして両手を使って、まるで地面の上を泳いでるみたいな形でやってきました。手の無い子は肩でバランスを取るんですね。こうやって必死にやって来た。自分、手が使えないのに、寝たきりの仲間を押してくるために、お腹の筋肉を使うんですね。こうやって必死にやってきたんです。あっという間に私たちの周りに40人くらいの子が集まりました。もうびっくりして、棒みたいになってしまって何も言えなくなっちゃったんです。先輩が私の耳元で、何泣いているの、早く挨拶しろよって言われて、自分涙が出てたのに気づいて急いで拭いて挨拶したんです。拍手もこない。あれ、何か変なことでも言ったのかな? と思ったの。後でよく聞いてみたら、結局、その施設の中で手を使えない子が多いので、もとから拍手できないんですよね。だからそういう習慣がなかったんだそうです。でも、その代わり、皆さん本当にお腹の底からみたいま声で、大きな声を出してね、声で歓迎してくれました。もうその声、今でも鮮明に覚えています。歌に聞こえたのかな? 叫びに聞こえたのかな? その晩、改めて自分の手足を見て、当たり前と思った。もう生まれながら付いてきたし、便利に使えた。生まれながら、やっぱり付いてこない子があんなに大勢いたんだな、自分の手でご飯食べれない、軽くても自分の手では書けない、好きなとこ走っていけない、好きな人ができても抱きしめることが出来ないのか、とショックを受けてしまいました。

 

あなたはボランティア活動通して何を覚えたの? ってよく聞かれるんですけど、小さかったのでよくわかりませんでしたが、少なくとも一つ教えてくれた。それはね、いろんな人がこの世の中には生きているんだ。私が普通に学校行って、普通に就職して、普通に結婚したら一生会わないですんだと思う。なんかやっぱり普通のラインがあるようで、私たちも人並みになろうと努力していくうちに、忙しくなって、自分のために笑う。自分のために泣く。周りが、色んな人が、色んな思いしながら生活してること忘れてしまうし、しかもこの普通のラインに合わない人たち、満たない人たちはどうしても私たちの忘れ物になってしまうんだなぁと。影に隠れやすくなってしまうんだなぁ。もう一つ覚えたことというのは、そのときまで私はわがままな子だったかなぁと思った。なぜかと言うと、もう不平不満がいっぱいです。何で姉みたいに産んでくれない、何でみんな比べるのよ、なんでもっと裕福な家庭に生まれてこなかったんだろう、と全部人のせい。でもね、周りの子供たちと比べてみれば、すごい、じつは私は恵まれていた。洋服きれた、屋根の下に寝れた。私、学校いけた。私、親がいた。私、目が見えた。私、兄弟もいた。私、お腹痛くなったら薬飲めた。私、独りで外で朝が来るのを泣きながら待つこともなかった。独りで病気になって、悩んで、死んでいくこともなかった。子供たちと比べれば私すごい恵まれてたのに、どうしてこんなに苦しかったんだろうと。

でも、私の苦しみも本当だったのよ。コンプレックスがいっぱいで辛いし、なぜか自分の殻から出られないし、苦しかったの。なんでだろう、と。そっか、きっと私、自分のことばっかり考えてたから苦しくなちゃったんだなぁ。もしかして、人間はエネルギーもってますよね。そのエネルギーを、自分のこと考えると中に入りますよね。中入って、詰まっちゃって、苦しくなって、息が出来なくなって苦しくなるんだなあ。

でも私は、本当に子供たちのために、初めて、生まれてから初めてね、周りのこと本気に考えられるようになった。取り組んでいくうちに発散できたんですね。ここに詰まっていたエネルギー。発散して行くうちに出口が見つかったみたいな感じで、どんどん楽になりました。きずいてみたら、自分がとても変わってましたね。どんどん発散していくから、この辺に余裕が生まれて、少し素直になったみたいで、周りの言うこと聞けるようになった。見るものがふえたんですね。それで少しは豊かな子供になれたと思う。だから、あれからはね、自分の辛い時は、自分のこと考えてもね、余裕は生まれない。むしろ周りのこと一生懸命考えたほうが、自分の立場が見えて、出口が見つかるんだなぁと。その時の子供たちが教えてくれたとても大切なことだった。

 

で、実は歌を歌うのも子供たちがきっかけでした。彼らが一番寂しく見えるのは、私たちが一番楽しい時ですね。お祭りとかお正月とか、誰かの誕生日とか。迎えにきてる人はいいんですよ。残された組がしょんぼりしてるんですね。で、その日にかけて、お腹いっぱい食べさせて、寝かしたい。もう、お金なかったんです。私たちもそのとき、本当に生活厳しかったので、お小遣いなんて無かったからね。でも学校のなかで、私フォークソングクラブというのに入っていまして、ギター弾けたんですね。で、私はお友達とグループを組んで、歌を歌って、昼ご飯のとき食べ物集めたり、小銭を集めたりしました。で、それが香港で噂になって、私は実は14歳で香港でスカウトされて、先に香港でデビューしたんです。

すごい思いがけなかったんですけど、ヒットしました。15歳でこれがシングルになって、香港で発売になって、レコードなんですね。で、それが、香港の歌謡界の歴史の中で一番売れたレコードなんです。今でも、それが記録に残ってるんですね。何がよかったのか自分はわかりません。あっという間でした。で、しばらく香港で歌ってたら、日本からも、日本で歌って見ませんかというような話がきて、私は日本にやってきて、17歳の時でした。母親は賛成しましたけど、まぁ母はどっちかっていうとミーハーなので、けっこうなんでも応援してくれます。でも、父は顔は丸いんですが、頭は四角いんで、結構いろいろ説得するのに時間がかかりまして、やっと日本にやってこられたのは17の時だったんです。でも17とはいえ初めての外国だったので、ほんとに何もかも新鮮でしたね。

 

沢山ね、やっぱりやっぱり失敗しました。でもね、失敗するたびに自分はすごい恥ずかしいんですけど、後で考えてみたら、ひとつ賢くなったっていうようなこともあります。そうかぁ、私、香港にいるときは、平和とか友好は、一番大切なのはね、みんな同じになればいいんだ、と思って、ああ、でもそれはちょっと浅い考えだな、とわかって。というのは、同じ人間ですから共通点も多いし、ある程度は同じになれるの。ある程度超えたら、やっぱり個人差でてきますよね。うーん、同じところで生まれ育っても、大きくなったら意見が違うということもあるしね。友好や平和や友情っていうのの一番の鍵っていうのは、同じになることじゃないんだなぁ、むしろ違いを認め合うことなんだなぁ、と。よく私たちも無理しますよね。人と合わせて、自分を殺して。何とか、もっともっとお友達に仲良くしてもらいたい、と。でもそれ、限度あるから、時どきは長続きしないし、時々は自分ばっかり辛くなってしまう。或いはバレたとき、相手を傷つけてしまう。むしろ、最初から本当にこの私です、とそれもさらけだして見せたほうが良いんだな、自分と違う人たちはそれを認めることが一番大切なんだな、と。だから多きな単位で考えても同じだと思うのね。今でも冷戦終わっても、50何カ国がいま、戦争中です。しかも80パーセントは内戦です。主義の違い、宗教の違い、考え方の違い、歴史の認識の違い……そういうことで争ってる場合が多いです。同じになれないかもしれない、いくら努力しても。でも、違うからって死んでもらいますって言ってはいけないんですよね。でも、私たちみんなが愚かで、まだまだそういう状況が続いているんですよね。でも、日本で、私はそれを覚えた。人の違いを認め合うのは一番大切。そして、その心広い自分を作っていくのは、とても大切なんだっていうことを覚えたんです。ただ、その時私は何もわからない小娘でも、皆さんの先輩、或いはお父さん・お母さんが私の曲を聞いてくださったおかげで、私も日本で仕事ができるようになりました。一時期はね、アイドルの仲間入り、アイドルだったんですよ。もう今はなんかちょっと恥ずかしいんですけど。でもそのときは、そういう風に言われるの、すごい嬉しかった。外国からきてね、日本語も一言もしゃべれないのに、みんなが聞いてくれたってことが、すごく嬉しかったですね。今になってアイドル時代の曲っていうのは、なんか、年齢から考えると内容がちょっと合わないかもしれないんですけど、でも、歌は年齢制限ないですから、今日せっかく若い皆さんの前でチャンスはあるので、当時の曲を歌わせていただきたいとおもいます。

 

「草原の輝き」の演奏を聴かせて頂く。