芥正彦氏×宮台真司氏公開対談
「実りなき社会で見る夢は芸術か、テロか。」
日時:2022年11月5日(土) 14:00~17:00
会場:早稲田大学15号館201教室
ゲスト:芥正彦(元東大全共闘、演劇家)、宮台真司(東京都立大学教授、社会学者)
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〇芥さん
(山上氏は)精錬潔癖な革命家と言えると思います。(山上氏の安倍元首相暗殺が)なぜ革命かと言えば、共同体が正義を失ったとき、国家や社会を一国の首相が議会政治を全くないがしろにするし、司法もグズグズにする。それまで優秀だった日本の官僚の実質を全部お釈迦にして気にくわないやつは出世できないようにしてしまう。挙句の果ては自民党内部の自分の意見の合わない代議士を落選させるために、競争相手を立ててそこに一億五千万もつぎ込んだりするわけで、こんなことがまかり通ってていいはずがなくて、若いころだったらあれですけど、、年を取ると少し若い人たち、君たちの未来に本当にある程度ちゃんとした国家や社会ができるだろうと思ったまま死んでいきたい、というじゃっかんの欲望があるわけで。宮台君に負けず劣らず僕もアナーキーで突っ切ってきましたから、ただ、殺人は拒否し続けて生きてきたっていうのはあります。というのは、僕が選んだのは演劇で、見えない肉体の話で、それを即物的に生物学上に抹殺しちゃうってのは、演劇ではあってはいけない一つの条件ですね。演劇が演劇として成立するために。じゃあなぜ山上君を無罪だというのかと。これは相手が相手で、相手が安倍さん、、さん付けしちゃったけれど、彼である、彼に限定するということです。要するに正義を失った時代、正義を考えようともしない政治家たち、正義抜きに共同体ができると思っている連中に呼び覚ましを行ってくれた。覚醒剤の覚醒です。これをきっかけにだから、共同体の根幹に正義の柱の1つや2つが立たない限りダメだということがみんな分かったわけで。まあ恥ずかしながら、なぜこんな国民を憎む政党になったのか。自民党がですよ。わずかここ十数年の間に。特にここ10年はひどい。それは第二次政権を作ったときに禁じ手に手を出したんですね。それまで日本の政党政治を守るために戦前の思想を政治の中にいれないという約束が、ある程度できてたんです。それが中曽根あたりを境目に、壊れ始めて、例えば安全保障条約にしても10年に1回改定する権利がこっちにあった。ところが鈴木善幸という田舎のおじさんが出てきたあたりで 永久条約、おまけに軍事同盟にされてしまって、その時に天皇制を憎む思想、要するにこの天皇制というのは、象徴天皇で象徴というのは民主主義、基本的人権の保障、個人個人の生命が神聖にして犯し得ぬものとして保障される。要するに、象徴というのは契約です。天皇はどういう契約かと言ったら、天皇自身に意味があるんじゃなくて、象徴の中に契約という意味が既にもうある。それは国民統合という契約。一つに結合される契約。憲法があってその下の法体系があるわけです。これを無視して、絶対天皇制の皇室抜きの絶対だけ欲しがる馬鹿な政治家たちが、結局始まりは巣鴨プリズンで、日本の有能な軍隊と言われてた軍隊のバカさ加減が露呈されましたけど8人ぐらいは処刑されてる。でも、生き残って出てきた岸とか、笹川とか、旧満州帝国のスパイ組織だった児玉とか、要するに絶対性を失った日本の良い部分、少なくとも私は平和憲法と同時に生まれてますから、戦後の歴史ほど僕の年齢なわけです。民主主義を否定する。基本的人権を否定する。そして、それを国民統合の象徴としての天皇を否定する。これは一国の政権がやることじゃないでしょう。これやりたかったらまず代議士を辞めて平和憲法によって守られるものを全部放棄した上でちゃんとやらなきゃあならない。それが平和憲法の中で甘ったれて、すっかりそれらを信じない形を取る。詐欺と犯罪と、だから道徳的に、日本は何の道徳もない政治になる。そこへ正義を呼び覚ました山上くんを何で犯罪者と呼ばなきゃいけないのか、それがわからない直接民主主義というのがあるわけで、法が裁けなかったら国民の一人が意を決して裁いてもいいわけですよ。国がだって裁けないんですからね。無法地帯になってるわけだから。そこへ法を差し込む。これは人間同士が決めた法廷よりすでにある。例えば、太陽が遅刻しないで、だいたいこの時間に来る。海の水は君たちが泣いても喚いても7%だっていうのを、一つの天体を動かしていく力としての正義なわけで。ちょっと長すぎてるな。
〇司会
じゃあ、宮台先生にも
〇宮台さん
みなさんこんにちは。芥さん。本当によろしくお願いします。
〇芥さん
こちらこそ。
〇宮台さん
芥さんと多分最初にお会いしたのが、90年代半ばすぎぐらいですね。95年にアンチェイン・マイ・ハートっていうですね。結城座の人形芝居をみて、僕はトランス状態におちいって、そのあと、夜中にほっつき歩くような状態だったんですけども、この芝居は一体何なんだっていうことで、もちろん芥さんのことは存じ上げていましたけれども、改めて、芥さんのことに非常に興味を持ち、その機会に芥さんが自ら打ったお芝居に、プレトークやポストトークに呼んでいただいたりしてお話をさせていただきましたが、ほとんどの場合、喧嘩になってしまいした、当時は。(笑)
でね、結構これは重要な問題でね。僕は道化の面も一部あるけども、一部本気で、やっぱり三島の視座っていうのも、統治の視座ですね。この視座に立っていて、三島のいう空っぽの日本人、つまりですね、一夜にして天皇主義者が民主主義者に豹変するような一番病のポジション取りをするような劣等な国民を統治するには不動点としての天皇がある、御門が必要だっていう、非常に近代的な統治のロジックを立てておられたんだけれども、芥さんは、「三島由紀夫vs東大全共闘」のドキュメンタリーを見てもね、お分かりになるように、そんなもの知るかよっていう風におっしゃるんですよね。つまり、身体とか、あるいは欲動の視座、アルトナン・アルトーの視座からいうわけですね。従って、噛み合うわけはないんだけれど、問題の構図は、皆さんにお分かり頂けたのかなという印象でした。芥さんがおっしゃったその、中庸としての今回の山上哲也氏の活動は、僕も当然のことだというふうに言ってきました。これは、僕の場合はですね、芥さんの視座とはちょっと違ってて、統治の視座からなんですね。
17世紀半ばにトマス・ホッブズっていう人が、「リヴァイアサン」という本を書いて 基本元々は我々、個人や共同体の自力救済から出発したんだけど、それだと、うかうか眠れもしないので暴力を譲り渡して、暴力を振るう権利を自然権っていうんですけど、統治権力を自立して、何かあったら、自力救済はせずに呼び出しボタンを押して、統治権力になんとかしてもらう。その代わりに、自分たちは経済活動に信頼ベースで勤しむのであるって、こういう図式なんですね。それで、このトマス・ホッブズの図式を逆転するとこうなるんだよね。
「国家が信頼できる暴力の独占体でない場合には自力救済せよ」
というね、そういう命題も含んでるんですね。これはロジカルの問題なので誰も否定ができない。ところで自力救済には2種類あって個体の自力救済と共同体の自力救済ですね。共同体の自力救済、これは一部では世界に広がりつつある。あとで議論になると思うけど巨大な規模の、つまり国家の民主性ってもう回らないんですね。「だったら自分たちでやるぞ」っていうのが共同体的自力救済としての、今ミニシパリズムって呼ばれてますよね。共同体自治主義ですね。でもこれは一つの前提があって、仲間集団が、共同体があるってことなんだよね。残念だけど日本には1980年代、急速に共同体が崩れて、その結果ですね、共同体的自力救済の可能性はないんですね。今後も多分日本にはマクロな意味ではもうないです。皆さんにも不可能ですね、ほとんどの場合は。だったら個人的自力救済しかないんですね。個人が自力救済に乗り出すときは追い詰められています。精神も、あるいは精神だけじゃなくて心身も傷んでいます。実際、山上容疑者はね、母親の自己破産から今回の犯行まで20年、いわゆる彼の世代に共通のですね、非正規雇用としての非常に辛い毎日を送ってきていた。その中で、僕の言葉で言うと、コールしても誰もレスポンスしないんですね。もちろん国家はレスポンスしない。それは旧統一教会が関わるズブズブ問題が背後にあるからでもあるけど。しかし、周り、地域も家族もレスポンスしないんですね。だったら唯一の可能性は自力救済だけど、このコールしてもリスポンスしてもらえないというのが、何十年も何十年も続いた人間が、どういう心身の状態になるのかっていうことを考えれば、これはむしろ自然なことが起こったんですね。そういう、少し芥さんと違った角度から、今回の出来事を必然の中での偶然、いずれ起こることが起こった、というふうに 考えるべきだというふうに思っています。
芥さんの先ほどのお話には、天皇をどう捉えるかと関連して、さらに米国をどう捉えるか。これ、天皇制を残すってのは米国の意向だったんだよね。あるいはまあ、米帝っていうふうに、僕らはいっていましたけど、米帝の意向だったんですね。それで、それに唯々諾々と従ったっていう経緯があります。それもですね、もしかすると後に話題になるのかもしれない。
それで、芥さんの視座と僕の視座、実は今、近づきつつあるような気がします。これは最初に言っておきます。僕はもうだいぶ前からですね、今申し上げたように国民国家、国民は仲間だっていうですね、ペテンに満ちた物語に依拠する国は、今後も回らない。少なくとも民主制としては回らない、 というふうに言ってきました。なので、ミニシパリズムが話題になるはるか前から共同体自治しかない、まあ無政府主義の立場に非常に近いものを主張してきました。なので、もしですね、今の僕が例えば25年前の芥さんと話した場合には、かつての25年前の構図にはならないと思います。僕は2009年から民主党政権にね、事実上アドバイザーとして参加して、「社会的包摂」とか「最大多数の最小不幸」とかいろんな言葉をですね、民主党政権にインストールしましたけど、結局、政党は労働組合政党であって、労働組合っていうのは、正規・非正規の区別を前提にした枠組みで、こんな枠組みは日本にしか存在せず、しかも全体の労働者の中で労働組合が占める割合は2割とかっていうレベルなんだよね。結局、アメリカの民主党と同じで、この正規労働者=労働一族は資本化、つまり経済団体の有力者と利害を完全に共有しているんだよね。テクニカルな話になるけど、7・8年前から言ってるように、もう日本の経済には全く未来がないですね。全ての経済指標がデタラメなんです。株価なんていうのはいくらでも盛れるのでどうでもいいんですよ。どうしても盛れない経済指標は何でしょうか。それは皆さんの最低賃金とか、一人当たりGDPとか、平均賃金に現れているんだよ。これも韓国にとっくに抜かれてるんだよね、最近では台湾にも抜かれてるんだよね。で、なぜかというと 生産性が低いからで、それは一人当たりGDPで表されるんだけど、なんで生産性が低いかというと既得権益を変えられないんですよ。もうヨーロッパではEV比率って3割近くだけど日本はまだ2%でしょ?で、統計的改ざんと同じで、ハイブリッドをさ、なんか電動車とかって言い続けているけど、完全に頭、ポンツクだよね。ハイブリッドって考えてみろよ。全てのエネルギー源は化石燃料だぞ。そんなもの国際的に通用するわけないじゃん。もう残念だけれども、それと関連することだけど、エネルギーの垂直統合図式、地域独占巨大電力会社が、すべての決定権を握っている状態は変わらない。マスメディアも垂直統合図式で同じ。ついこの間まで通信も同じ。つまりこの既得権益産業が移動できない。変われないわけです。ご存知のように、電通・パソナがそれに追い打ちをかけるべく、ジャブジャブ税金を注ぎ込むとパンパンパンパン中抜きれて、最後は3割以下しか残らないような状態。これオリンピック疑獄の問題よりももしかすると大事なんですよね。そうしたですね、垂直統合的巨大企業とパソナ・電通的中抜き企業に、なんと官僚たちが天下りしてるんだよね。その官僚たちのケツをなめる形で、政治家が政治を行う政治主導とは名ばかりで、すべての政策は官僚が一見、政治家、安倍晋三のケツを舐めるようなフリをしながら、実際には自分のコントロール領域を強めているんだよね。アメリカのケツを舐める官僚のケツを舐める政治家のケツを舐める日本のマスコミのケツを舐める評論家のケツを舐める日本国民というケツナメ連鎖。それはどこでも存在していて、それを僕はケツナメ連鎖のムカデ競争って言ってますけど、したがってドコを切っても金太郎飴の安倍の顔、菅の顔、岸田の顔になってるわけで、こんなもん取り替えたってどうにもならないわけよ。皆さんのオツムと心を取り替えないと。日本の野党を見てくださいよ。僕が年来主張している正規雇用・非正規雇用の区別をやめよう。つまり解雇規制を撤廃しよう。経営者が自由自在に首を切れるようにしろ。これがないと民主制のもとでは産業構造改革はできない。それを支えるのは新自由主義だったんだよね。日本にあったのは新自由主義ですか?ネオリベですか? 頭壊れているよね。日本にあったのはただの既得権益を軽くするための非正規雇用化であり、消費税化であり云々かんぬん。これは自明なことですよね。いや、だったら、資本の中に含まれる労働の移動で痛みを感じるだろう。そう。だから国際標準では労働力の公正な移行措置といって、2年間の所得補償と職業の教育、職業の訓練の機会を提供するという風にして生産性を上げてきているわけだ。これを主張している野党はいますか?民主党系ケツナメ組合、ケツナメ野党は当然として、令和も主張していないよ。参政党も主張していないよ。N国党も主張していないよ。つまり日本にマトモな野党はないよ。それを支えてるのはみんなじゃん。でもみんなはどうしてそれを支えちゃうの?あるいはなぜそれを支えるほどトンマなんでしょうね。それは皆さんのせいじゃなくて、正しい情報が与えられてないわけだよ。正しい情報って何ですか?そういうのは統計改ざんに象徴されることだけれどもね、結局、皆さんが見たいものしか見れないようなそういう構造になっているわけ。実は僕がTwitterとかインターネットで日本の経済指標も終わりだと言い始めたのは2016年です。もう6年7年ぐらい前だよね。それをマスコミが報じ始めたのはなんと、去年からだよ。オリンピックのデタラメが明らかになり、あるいはコロナでの東アジアにおける圧倒的な敗戦が明らかになったからだよね。それまではメディアは一切報じなかったし、しかも、朝日新聞に至っては僕が山上容疑者について書いた原稿の大事なところを3点削除してやがって、これをジェイキャストニュースで告発をしたら、本当の原稿はこうだったなんて言ったら、朝日新聞はざまあみろで、数十万部、部数を落としたようだね。ちなみに朝日新聞は 過去10年間で購読者数は八百数十万から大体四百万人に、半減以上減りました。ザマアみやがれです。これがリベラル新聞を名乗ってたんだぜ。どういうことだよ皆さん。朝日新聞に入れたら鼻高々なの?そういう方もいらっしゃると思いますけど、終わってます。以上です。
〇司会者
宮台さんからお話もありましたけど、芥さん、宮台さんから近づいてきてるとお話がありましてけど、芥さんとしては今の話を聞いてどう感じてますか?
〇芥さん
近づいてきてるっていうのは、まあ詳しくはわからないけれども。彼は、昔、私が台本を書き換えたりしながら演出をやった演劇を見てた。人形劇での、ちょっと残酷オペラをやってみようという。もちろん舞踏家とか他の人間も出てくるんだけど。要するに残酷という意味は、普通の人間には耐えられない精神的苦悩と耐え難い肉体的苦痛、これを両方が度を越えて一定時間があった時に、存在の一番下のあたりからもう一つ違った力が出てくるわけです。山上君の場合は一つのアルトー的残酷劇と言えると思います。要するに器官が被る苦痛、精神が被る苦悩、これは演劇においてもある程度共通で、もちろん革命家の場合もそうですけれども、革命家の場合は現勢力という現実それ自体の中に、現実的に侵入していかなきゃならない。でも芸術の場合は先制力というか。これはイタリアの全共闘世代の哲学者の言葉ですけどね。ジョルジュ・アガンベンという人で、もしあれだったら読んでみてください。ホモ・サケル、犠牲体。要するに、共同体は必ずある優れた犠牲体の定期的出現において呼び覚まされ、呼び覚まされ、続いてくるものだと思うんですよ。最初からあるわけではなくて。例えば、いろんなところで理不尽な監禁を受ける。だから、違う!違う!違う!違う!違う!違う!!違う!!!違う!!!!って言い続けなきゃならない。アルトーの場合、精神病院で10年間、それを言い続けたわけで。そこで私というのはどうなるんだっていうね。ふつう消されて、それでも人間でありたいと思い続けながら気狂って死んでいくんだけど。アルトーの場合ちょっと逆で、僕が尊敬してる唯一の演劇人とも言える人なので、僕の父親にあたるかもしれない。アルトーが言うように、自分自身に向かって
「俺は俺の息子だ。俺は俺の父だ。俺は俺の母だ。俺は俺自身だ。」
これね、とても残酷な話なんですよ。身体から無意識の中に逃げ込んでいる神を追い払う。要するに、自分の生きている身体に神が介入しない身体と時空を作り出すってわけです。これが究極の残酷ですけどね。演劇はおかしくなったとき一つの犠牲体、秘密の夜に、秘密の自己犠牲が行われる。それが土台にあってある聖なるパフォーマンス、それは一定の残虐さがあって、それを踏みつけて上昇してくる。天使性といえばそれまでですけど、宗教も神も排除した身体。これを器官なき身体、オルガなき身体といって。要するに、アルトーの俳優性は、そういう見えない身体性に到達して。普通の演劇人は、例えばハムレットという死なない人物がいて、ハムレットを何百年も続けていろんな奴が演じ続けることで、ハムレットが生き続けて、そういう意味ではハムレットも身体の形而上学性だけで生きているわけで。それを実際自分の生命体でやってみる。自分がモルモットになる状態。この残酷を生贄とする。山上くんの場合、自分自身を自分の生贄にして、残虐さを超える生成、聖なる力、自己の生殖エネルギーを純粋な行為のエネルギーに転嫁するわけですね、その残酷な軋轢をまあ利用してって言うのはおかしいんだけど。それでも、彼はあまりにも不幸すぎる、理不尽すぎる力を加えられたから、当然、共同体に復讐する権利は彼にはある。その張本人を消す。それは残酷劇としてパフォーマンスは成立しています。それともう一つ。彼は一人でなかったから良かったんですよ。妹さんがいらしたから。兄のために尽くす寛大さを持った生命、母であり、一体化して、彼と一体化する唯一の人間として女性として、妻です。そして恋人。要するに宮台さんがおっしゃった、いくら呼びかけても何の応答も来ない世界(とは別に)妹さんという一つもう一つの共同体があったわけです。これを妹の力という形で柳田国男さんなんかが民俗学的にいろいろ例を持ってあれしてます。だから、一つの犠牲体に対してそれを尽くす。身をもって存在が、要するに彼は1人でなかったということが逆によかった思ってるわけです。普通、テロっていうのは権力側が正体を現さずに、不都合な人間を消してしまうわけで、山上君の場合は、ちゃんと正体をもって、白昼堂々、自分の技術と胆力と感性立ててやるわけです。彼にとっても彼は父で、彼は母で、彼は息子で、それで息子の仕事は終わって自身が国家に愛される、監禁されて、これでようやく落ち着いて、漫画本が読めるという安堵の世界で、ようやく国家という共同体が、彼を迎い入れました。物語としてはそういう感じだと思います。
それと、芸術かテロかではなくて、テロのような芸術、芸術のようなテロが、かつてはあって、例えば、三島由紀夫がそれにはいるんじゃないかと思うんだけど、要するに男同士の心中事件を大っぴらにやる。スノッブの世界が相手だから 俺はもうスノッブを辞めた、その証拠がこれだという形を取ったわけです。そのきっかけは、多分僕らが全共闘時代に東大に呼んであの話をしたことあたりからきっかけになってちょうどあの時、「暁の寺」かなんかの半分ぐらいのところまで書いてて、僕らにあってから、「暁の寺」は後半作品が少し変わってきます。彼は、自分の文学はもはや神羅万象を相手にできなくなっているということを彼自身一番よく知ってたから。それと彼を支えてた美学が、要するに死の美学なので死んでみせない限り何も完結しない。だから芸術とテロは絶えず、彼の中でせめぎあい。というのは19歳のときに書いた、「中世に於けるー殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」というのがあって、もう話は簡単です。ちょうど「花ざかりの森」と、16歳で書いた作品の反対側ですね、光が当たらない闇の中で連続殺人者が日記を書いているという設定。まあ彼自身なんだけど。それはちょうど昭和19年で、太平洋戦争戦争の末期だから、要するに、女、子どもと混じって敵機が来ると防空壕の中で逃げ込んでた恥ずかしい自分に対する後悔の思いがああいう連続殺人者をでっちあげて、その日記があるという形をとってるわけで。あれもテロの連続性をベースにしているわけです。ちょっと腐りきった美学ですけど。僕自身はかなり健康にギリシャ的な側面が強くて、テロも芸術も愛が関わってるって事では同じだと思うんですよね。この場合プーチンなんかのテロじゃなくて。じゃあ愛って何だってことになるけれども三島だってそれはあるんで、男性の心中事件ですから。決起する前に森田くんとセックスをして出かけていくわけで。最後の作品のあれを出版社に渡して、ちょうど僕がそのころ住んでた建物が学習院の小学校の真後ろにあるんですけど、そこで僕は発声練習をしているときに、その時はわかんなかったんだけれども。彼らは正門前で制服をきて、降りて、服装チェックってことになって、その時に彼は「ああ、今、俺の娘はここで授業を受けてるんだな」ってポツンと言ったっていうんですよね。そういうところが割と好きといえば好き。彼の作品は、僕はそんなに愛してなくて、ただ「花ざかりの森」とその殺人常習者の日記、2つの美学が一つになって、ルサンチマンを火に変えようとした「金閣寺」が生まれて、ただ、あれ以降、彼は金閣寺を超える作品を書けなかったということは事実。当時評論家たちや文壇を作っていた人たちはみんなどっちかって言ったら左翼系なわけで、全然評論が良くない。実際、「鏡子の部屋」なんか読んでも詰まんないわけで。ドーベルマンを旦那が飼っていて、獣臭いから嫌って言って離婚して追い出すんですよ。ちょうど朝鮮戦争の時期です。日本の植民地政策が敗北して引き上げた後、北と南に分かれて。あのドーベルマンたちがある意味で、比喩としては勝共連合を作った連中に近い。多分そこらへんは三島さんも知っていて、ああいう殺人犬を飼ってる旦那、要するに鏡子って天皇ですからね、観念として。天皇の旦那が、絶対天皇制の残りみたいなものをドーベルマンを使って。
ただ、浅沼さんが暗殺された事件があって、まあ知らないかな、僕らも小さかったから。社会党の委員長で浅沼稲次郎さんという人がいて、楯の会の鈴木?さんなんかその浅沼委員長をすごく尊敬していて楯の会に行ってるわけですけども。浅沼稲次郎暗殺の場合、本当にテロなんですよ。計画立てた奴がいて、何も知らされずに実行する純心な少年がいて、行為が終わったらすぐに自決するように自殺するように教育されて、これはアジア反響国家リーグ連盟というのを作ったわけですね。横田海軍基地の情報を、いろいろ暗躍してたわけで。結局その連中がまだ生きてた時はいいんだけど、死んだあと組織だけが変な力を持ち始めて、統一原理みたいなものになる。だから問題は、一人二人では足らないアナーキーな自分が湧いてくるのと山上くんの行動に目覚めさせられた私もいて、駆け寄ってすぐこうハグしてキスの一つでもしてあげたくなった自分がいるわけ。それがここに来ている動機です。
〇宮台さん
芥さんがあまりにたくさんのことをおっしゃったのでですね、どこから手をつけるべきか考えてるんですけれども、僕がねアンチェイン・マイ・ハートにやられたのは、ミメーシス、感染したから、力が湧いてきたから、あるいは力が受け渡されたからということになります。それとね、三島の自決問題をつなげると三島は、先ほど紹介したような理屈で空っぽな日本には天皇が不動点として必要と考えた。それに対して橋川文三が直ちにですね、致命的な欠点を指摘する、「そうか三島くん、君は天皇を機能によって擁護するのか、だったら天皇はただの入れ替え可能なツールに過ぎないぞ」と。それに対して三島は、「橋川先生、おっしゃる通り。しかし、近く私は、答えを見せてやる」みたいなことを書いたんですね。その後自決をするわけです。三島は、実は、今は右翼という風にされているけど、当時はですね右翼界隈では徹底的にバカにされていた存在です。ところが、自決によってですね、いわば右翼の神のような存在になったんですね。つまりそこで彼が示したものが美学です。美と美学は違うよね。美は、単に美しいだけです。美学はそうではない。美学は見かけが美しくなくても、それによって強烈な力を受け渡される。つまり感染する力を持つことなんですね。それによって三島はそれまでは、エセ右翼の扱いだったものが、本当の右翼だなってことになった。それは人々が彼に美学を感じたからなんですね。だからそれは、皆さんに分かりやすい言葉は何か、本気とか意気に感じるの「意気」と言うこともできるかもしれない。でね、実はこの、本気、意気、美学はいわゆるカテゴリーとしてのイデオロギーを超えるんですね。それを最初に記したのが鈴木邦男の「腹腹時計と〈狼〉」(1977年)です。彼は、三島由紀夫事件はよど号事件に感染したものであり、その三島事件に感染したのが反日武装戦線狼のテロ事件であり、この反日武装戦線狼のテロ事件に感染したのが、野村秋介の経団連立てこもり事件なんだっていう風にしましたね。そこで彼が言いたかったことは、意気に感じる、その意気ですよね、あるいはその美学の中核にある「力の抜き渡し」、これはイデオロギーには関係がないんだ、ということを言ったんですね。そのように物事を捉える立場が本当の右。真実の右翼であって、それは今の対米ケツナメ右翼とは違い、むしろ戦前に連なるものなのである、というように言ったんですね。だから新右翼という場合の、新には音が同じだから真実の右翼っていう意味がかけられている。それはまあ、僕が、鈴木邦男氏から伺ったことです。僕はギリシャ哲学をかなり深くやっていますけれども、本当の「右」ていうのは資本主義を認めるとか、やれ反共主義だとかっていうことは関係ない。むしろイデオロギーを拒絶して、美学に連なること、これを主意主義といいます。これは、インテレクチュアリズム=主知主義を否定しています。主知主義って何かというと、その三島のような理屈ですよ。天皇はこういう機能を果たしているから擁護するべきだとか、何事もそう。人々を擁護する時に理屈でそれを擁護する。パラフレーズすると、制度を変えれば、法を変えれば、仕組みを変えれば、社会が良くなるというふうに考える。これが主知主義。それが右に対する左であって、それに対する主意主義というのは、社会が良くなっても人は幸せにならない。人が幸せになるのはどういう時か。そこでさっきのアントナン・アルトーの話につながるんですね。「俺の主人は俺」。これどういうことかというと、皆は自分が主体だと思っているんです。しかしですね、これコントロールする・される。これ僕のキーワードですよね。ちょっとそれを入れてみてほしいんだよね。皆は自分がやった、自分が考えたと思っている。その自分は、もしや操り人形ではないのか?ということです。もともと社会学にはそういう発想が伝統的にあります。 社会化、ソーシャライゼーションという概念はそれ示しているわけですよね。あるいはアルトーから直接的に大きな影響を受けたですね、ジル・ドゥルーズという人がいますが、彼は様々な人たちと合わせてフランス現代思想とか現代哲学と呼ばれていますが、それに共通するのは歴史的な経緯は省きますけれども、やはり私はもしかして操り人形なのではないかっていうですね、その意味はわかるでしょうか。例えば皆さん言葉を使って思考する。ボキャブラリーを使うし、あるいは人に分かるように言葉を使う。その時に皆さんが使っている言葉は、社会から刷り込まれた、あるいは抑圧的に受け取らされたものですね。そのこと自体がコントロールではないのか?あるいは家畜のように訓練されて、ディシプリンといいますね、フーコーはね。それでまるで自分の欲望であるかのように社会や統治にとって都合のいい欲望、これを持つようになっているのではないか。すごく正当で理屈が通った議論だと思いませんか?じゃあコントロールされない自分ってどこにあるの?それを探し始めることが、実は地獄なんですね。それは、今日はできるだけ人の名前を出さないで喋りますけども、例えばラカン派の系列の中にもそういう追及をしたジュパンチッチっていう人がいます。あ、出しちゃった名前を。知らなくてもいいんですよ、別にね。コントロールされない自分は?っていう風に探してみてください。結構大変なことなんですね。じゃあ皆さんそれはとりあえずカッコにくくって頂いて。
私が、学生時代から知ってるひろゆき。今「ひろゆき」ブームですよね。今一番下の僕の子どもが小学校3年生のガキなんですけど、なんか言うと、「それって単なるあなたの意見ですよね」「おまえ何なの、それ?」「いや小学校でみんな使ってるよ」 良い影響か、悪い影響か。あのね、まあ基本ですね、最初に司会者がね、紹介してくださったことだけど、残念だけどこういうディベートめいたある種のこしらえものって全然意味がないんです。全く意味がないんですね。それはなぜかっていうことも先ほど話したことにちょっと関係するんですね。僕はですね、あの、震災後、ある時期からですね、本当に今までの僕から考えられないけど、僕は実は85年から96年まで結構ディープなナンパ師だったっていう伏線があるんですけど、2010年代に入ってから性愛ワークショップをやるようになるんですね。それは演劇的な方法も使いますけれど、基本的に身体をコントロールするものから取り戻すということですね。でも実は取り戻そうとしている自分自身も、もしかしたら操り人形かもしれないということにも気づいてもらう。そのような気づきが深ければ深いほど、実は本質的には社会の外にある性愛や、祝祭を回復できるんですね。
社会って、定住によって始まった言葉と法と損得勘定の時空です。しかしそれだと人間ヘタレるんで、時々、力を回復するために 祝祭をするんですね。祝祭の中核にはタブー/ノンタブーの反転があり、そこ反転されるタブーの中核には、性愛があるんですね。明白な構造があると思うんだけど、そういう意味で言うと、実はそういう言葉を損得の界隈に人々が閉ざされると、残念だけど、皆さんからは力が失われ、生きづらくなり、それを、ある種、「回復させる力」を回復させる力として祝祭と性愛がある。先ほどチラっと言いましたが、80年代にある種の共同体の極端な空洞化がおこる。その結果としてですね、実はカルト宗教が続々と日本に増殖をする。さっき言ったように、共同体的な自力救済がもはやできない。コールしても誰もレスポンスしない。その時に個人で自力救済するのって大変だよね。なかなかそこまで踏み切れないというところに出てくるのがカルト宗教、今は情報商材詐欺だよね。多くの方が投資情報商材、英語情報商材に金をつぎ込んでいますが、大半が詐欺です。一応これは僕の定義です。厳密な犯罪っていうわけではないです。この情報商材にみんなね、ドバドバ金つぎ込んでるんでしょ?30分のカウンセリングに120万とか払い奴もいるんだよ。これってコントロールされてないですか、みなさん?つまり、今の非常に残酷な社会状況も、ある種のコントロールを狙う情報商材の売り付け主体とか、カルト宗教のコントロールタワーにとっては皆さんをコントロールする絶好の機会なんです。面白いでしょ皆さん?救済者に見えるものがそういうものでありえるということも、皆さんがいかに自分が主体として行動しているように見えながら、いかに自分が主人になることが難しいかを表しています。というところからですね、フランス現代思想がもともとのの源流にはいらっしゃるわけですけど、何を言ってきたのかは実はすごくわかりやすいことなんですよ。それは例えば、皆さんね、デートする時めちゃめちゃ劣化してるんですよ。自分をどう見せるのかっていうことに必死になっている。バカじゃないの?デートっていうのは、子ども遊びと同じで一緒にいて楽しいこと。もっと言えば、相手が楽しいかどうかをウォッチすることだ。子どもは一緒に遊んでいても相手が楽しそうじゃなかったら、すぐに気がつく。あるいは大人が何か言ってても、言ってることに反応しないでどういう構えで言ってるかに反応するんだよね。「怒ってないから」子どもは何言ってんだ、このおっさん怒ってるぜって思うわけですよね。それでさっきのひろゆき問題で、僕がね、ディベートに強いと言われるのはなぜかっていうと相手の言うことに反応しないからです。相手がそれを言う体勢に反応するからですよね。それはなぜ僕はナンパ師なのかっていうのと同じで、相手が何を言うか、あるいは何をするかじゃなくて、それを言ったりしたりする時の相手の意識できない層、無意識に働いている様々な2項図式的な力の動きを見るからですね。ここを詳しく言うと面倒くさくなるから、一応ですね、何かを言う時に、何を言ってるかじゃなくて、それを言わせているもの、構えに注目をすると、実はそいつが 自分が主体として喋っているつもりだけど、こいつは操縦されているんだなーってことがわかる。 まず可哀想な気持ちになる。そうすると相手のその言葉を操縦している無意識に語りかけるような、場合によって応援するっていう力も与えることができますが、相手から力を奪うこともできるんですね。そういう 言葉の使い方をすると、皆さんは恋愛にも、ディベートにもとても強い人になる。その時、皆さんは自分が喋っているという風な自覚もしていることになる。自分にそれを喋らせているものは何だろう。ということで皆さんは、実は僕に言わせると、どんなにディベートの訓練をしても猪口才(ちょこざい)です。つまりトーシローで終わります、一生。それはどう言えばいいのかを考えてるから。終わっています。以上です。
〇芥さん
ディベートは絶対の不在、存在の不在で成立してしまうような気がしますね。肉体を入れたらディベートじゃなくなって反対側に移れなくなるけども。宮台さんにちょっとお聞きしたいのは、例えば共同体における言語の活性化と性愛の活性化は絶えず同時にあるのか、あるいはそれは分離されるのか。どう思います?
〇宮台さん
それは分離されるでしょうね。それはね、猥褻という概念に注目するとよくわかると思うんです
〇芥さん
社会が道徳的なものをふりまわすから。
〇宮台さん
そうです。社会と性愛っていつも、数学的に言うと直和分割できる時空間なんですね。もっと具体的に言うと、例えば性愛の享楽は、法を破るときにやってくるんです。これはフロイト、ラカンの発想ですよね。それはなぜかということは厳密に理論的に記述されてるけど、皆さんは結果だけを知ればいい。皆さんは、例えば恋愛関係によってそういうことをすると僕たちが法を破ることになるからやめようか、そうしたらこの相手死んだがいいなって思いますよね。恋愛の音楽や、恋愛の芝居や、映画の伝統では困難を乗り越える愛が真の愛。この場合の困難っていうのは世間であり、社会であり、芥さんの言った道徳であり、規律であり法なんです。そんなものは破ろうか。それはシェークスピアの「ロミオとジュリエット」を考えてもいいし、近松門左衛門の「曽根崎心中」とか近松半二の「新版歌祭文」、これはよく結城座がやる演目だけど。世話物、つまり心中物、色物もそうだよね。
〇芥さん
共同体を乗り越えてくる、、
〇宮台さん
突き抜ける瞬間に、浄瑠璃では人形にまるでスポットライトが当たったかのように、光を感じるわけですよね。そういうメカニズムが、アンチェイン・マイ・ハートには隅々に各所にあって、いや本当にすごいなと思ったし、それを結城一糸さんね、結城三兄弟の三番目は、「闇の力」って言ってましたよね。アンチェイン・マイ・ハートには闇の力が満ちているんです。その闇の力がなせる技が、共同体を突き抜ける、ニアリーイコールですけど心中を決意した瞬間に、そこにスポットライトがあたったかのように、まぶしい光を僕たちが感じて、力を獲得する。その力が闇の力だということなんですね。
〇芥さん
ただ、恋愛と結婚はどう違うかって言うのは全然違いますよね。恋愛を本当に十全に味わうなら、恋愛をしっかりとするなら、あくまで、これは個人が個人としてそこに成立しなくては成立しえないわけですよね。だから、真のアナーキストだけが恋愛を全うできるのではなろうか、という感じでいいですか?
〇宮台さん
もう完全に正しいです。皆さんご存知かもしれないけど恋愛結婚って実は150年前にだいたい誕生したものです。ちょっと遡りますけど、元々恋愛っていう概念は、欧米だと12世紀ルネッサンスと言いますが、ムスリム的な物の侵入によって始まったとされてるんですね。簡単に言うとですね、もともと結婚というのは定住を支えている農耕の収穫物の保全・配分・継承の継承線を定めるために強いられてするものなんですね。なので、そこでは 愛、好き嫌いは全く関係ないです。もともとの出発点は、続き柄婚って言いますけど、血縁関係でもう結婚相手が決められてるんです。その後ですね、少し社会が大規模になると階層婚、家柄婚になるんですね、続柄きから家柄に変わる。これも親があるいは年長の家族が結婚相手を決めるものなので愛は関係ない。こういう流れがあった中で、特に今申し上げた身分婚、階層婚、家柄婚の時代に恋愛っていう言葉が出てきた。これは歴史的な背景があるんだけど、飛ばして言いますけど、結局、どこでも恋愛という概念は婚外愛を指すものになったんです。日本でもそれは同じです。恋愛はすべて婚外愛。なぜかわかるよね。結婚って、さっき言った「法」、簡単に言うと決まりに縛られたもの。あるいはその共同体に縛られたもの。それを突き抜ける営みだけが、つまり社会の外側にあるものだけが恋愛と呼ばれたわけです。ただそれを分かっているかどうかって、本当はこれ教養の問題じゃなくて身体性だと思う、構えの問題だと思うんだけど、だから芥さんや僕の時代には、やりたくなったらその辺でやりましたよね。雑居ビルの非常階段とかで。今は公然わいせつですね、みたいになる。今でもですね、本気っていうかやる気があればできるところはあるんです。どこだかわかりますか?コインパークです。 コインパークはね、車の後ろに隠れると監視カメラに映らないだけではなくて、車のウィンドウを通じて周りを監視できるんですよ。だから近づいてくるとすぐにわかる。そういう知恵を持ってる人、手を挙げてください。(一人挙手)お!さすがだね、っていうか一人しかいないこの状況何なんなんだ!以上です。
〇芥さん
恋愛が重要なのは、結婚の場合、力のない人たちが体制の認知を受けた形で納得した形で、あるいは納得しないうちに相手を確保するため。恋愛の場合は全く個人が自分の権利で、孤独も2倍になるし。あるいは2倍以上になるんです、人を愛せばね。それで不安になってみんなの結婚だの、なんとかってことで。なんでこんな話をしてたかっていうと、三島さんも恋愛事件だし、ただ三島さんの学習院の母校の先輩で有島武郎さんという人がいて、波多野秋子という津田塾の英文科なんか出てる、婦人公論の女性記者と最後かけおちして軽井沢で二人とも首つって心中するんですけどね。一か月くらい発見されなくて、まあ凄惨な事件だったんですけども。それは国家を乗り越えて、国家の追及を受けない地平へ出ちゃうことなんですね。純粋なステージ性と言ってもいいですけれども。キリスト教徒が近松門左衛門的な世界に突然入って、なおかつ日本国家の近代のいやらしさを突き抜ける。これは三島さんかなり影響を受けてたような気がするんですね。同じ学校で出てて。学習院を出た後、東大の法学部を卒業してるわけですから、なぜこんな話をしたかったかというと、僕は、天皇劇をやって右翼にぐちゃぐちゃにされて上演ミスになった俳優座最後の一日っていうのがあるんですけど、そのときいっしょにやった中島葵という女優がたまたま森雅之さんの娘さんで、だから有島武郎さんがおじいさんにあたるわけで。有島武郎さんは大正天皇のご学友で、学習院初等部で、武家の社会から公家しかいなかった学習院に入ってきた。まあある種、差別があったわけですね。乃木大将が自分のポケットマネーで作った学校なんで、最初は公家しかいなくてどうもみんな軟弱で武家の子も入れようということになって、その第一号が有島武郎さんだったらしくて、毎週吹上御殿へご学友として遊びに行かなくてはならない。でも最終的には天皇制はいずれ消滅しなければならないという形を取ったにもかかわず、その下にある生殖共同体的なもの、要するに近代以前の、闇と言えば闇ですけど、闇っていうのは本当にあるのかないのか、僕はまだよくわからない。これは僕の性質上そうなんだけど。太宰治は男女の心中、そこで男性同士の心中事件を持つ。男性が愛し合う。それは天皇という絶対的美女、観念的には美女なんです。絶世の美に向かって男性同士が愛し合う。その連結が天皇制を支えるっていう美学ですね。だから日本青年館というのがあって、早稲田大学出身のラグビー部と弁論部の森っていうおバカさんがいて、今もオリンピックなんか勝手にやって、中間搾取で会計報告なんかもろくにしない、六千億円どこに行っちゃったんだって感じですが、まあそれはわきへ置きますが。恋愛はよっぽど力がないと最後まではいかない類のものですね。社会道徳が邪魔をしてきたら、その分妥協を強いられたりする。二・二六あるいは五・一五の場合は、男性同士が愛し合う、その幼児性はフロイト的にはおもしろいわけですね。若い青年たちの集合体だからね。これは完全に美学で、思想でも何でもない。それで、二・二六の場合は日蓮宗が入り込んで、要するに小乗仏教と大乗仏教を一つにして世の中を作り変えていけるという法華経のある部分を日蓮が大きく取り出して、今の創価学会になってるのかな、少し歴史的なカルトですけどね。ただ恋愛は純粋に恋愛として経験し、楽しむには本当に力が必要なんですよ、天才的に。なぜなら人間、愛に対してはね、ほとんど強くない。少なくとも、不幸なことに男女に引き裂かれて作られいるからそうなる。国家以前の摂理で、この生殖エネルギーの持つ底力って言ってもいいと思うんだけれど、その生殖エネルギーが蓄積されて、共同体が生まれて、その秩序として国家がつくったりする。ちょうど企業でいう資本というやつですね。あれは労働が蓄積されたエネルギーなわけですから、もちろん生殖エネルギーも蓄積されて資本の交換価値を高めたりして生産率を上げたりするわけで。恋愛がほぼテロルに近い。総合テロだね。お互いに殺し合っちゃう。ドストエフスキーが「罪と罰」でソーニャをラスコーリニコフの前に立たせるのと同じで、彼は生きていくわけですけど、ひざまづいて、ひざまづいて、全てに頭を下げて、そうできない自尊心をどうしたらいいのかって言うのはじゃっかん問題ですけど。力がないと恋愛を全うできない。ただ共同体は生殖エネルギー抜きには成立しない。要するに、生まれて死ぬまでの間、誕生と死がある意味でイコールになっている部分があって、そこへ緊急避難的にその技法を使って、この世を超えた状態にいく。一瞬と言えば一瞬だけど、そこに到達するまでの費やされた性愛エネルギー、重力、電気的な磁力、宇宙的な力で異なった力が2つ3つ4つぐらい集まって最終的に成立してくる。実際、日本国家って言うのは、古事記以来ほとんどセックスのことしか書いてないわけですね。万葉も、特に新古今なんかもそうですけど。だから自分で恋愛を作ろうとしたら国家に反逆しなきゃならなくなる。これはある意味で美学・芸術・テロが3ついっしょになったらできるんでしょうね。だから、天皇というのは空っぽであるべきなのに、器官なき身体であるはずなのに、生にまつわる一切を天皇と呼んでしまうわけです。太平洋戦争なんか民族の一家心中事件を国家規模で発生させただけで、構造は単に一家心中です。生きられない怖いだから心中しちゃうという。戦争としては成立してないんですね、何が敵かわかんないんだから。アメリカが敵だったら真珠湾があそこまで成功してるんだから、そのままアメリカ本土に攻撃かけなきゃいけないけど、それもしない。第二波攻撃もしない。満州帝国もそう。五族協和で全アジアから人口を作り出して、ヨーロッパに対してアメリカ合衆国というのができたけど、満州というのは、アジア合衆国という夢があった。それをトラウマとして抱えているのが文鮮明たち、あの生き残った戦犯たちなんですよ。彼らはイデオロギーも何もないから、日蓮宗はもう使えない、何しろ創価学会が公明党で使ってるからね。そうすると、イデオロギー選びに、ユダヤ教的な「絶対」を利用しようとして、利用されつくしたんですね。安倍政権の時から。だから、権力は監視してないと民主主義であれ何であれ、すぐ堕落するようになっているので、特にソビエト帝国が崩壊したのも共産主義を捨てたから、民族主義と単なる帝国に堕落したからああなるわけで、それとアメリカの場合、ケネディが暗殺されたので、なぜ暗殺されたかというと、フルシチョフがキューバで問題を起こして、でも戦争にしないで解決できた。これはケネディとフルシチョフの力なんだけど、彼らはそのあとをやらなきゃ問題は解決しないということで意見が同じになった。冷戦構造を終わらせるっていうことです。共同声明を発表しようとしてある程度準備ができてもう少しという段階でケネディが消された。なんでかわかるでしょう。冷戦が終わると冷戦共同体の利益が上がらなくなるからです。どっかで戦争やってないとね。朝鮮戦争も、ベトナム戦争もそう。ウクライナはある程度はそうですね。ソビエトがロシアになった時が一番罪が重かったんだと思う。共産主義という理想の形式が消されたからです。中国も帝国主義になっちゃったから、個人崇拝と独裁帝国に。共和国として中国は各省庁の官僚にあたるものが独立的に存在していて、お互いに相手の弱点や欠点をチェックしながら、全体が上手くいくように機能してたんだけれども、最近は会議の最中に退席させられたり、あとは周りはみんな違う意見を言えない連中だけになった。国家に幻影を抱くことをやめないと、共同体というなら人類共同体を考えないと、この狭い星で、光のスピードでコミュニケーションが取れる時代なんですから、この地球だって人類共同の住処なわけで、建築物としての地球を考えるとき、人類はやっぱり共同体なのですよ。それをちゃんと立法化できるはずだと思ってるんですけどね、僕は。まず何をするか。 通貨統一しないとダメです。各ブロック経済で通貨がまちまちで通貨の売買でまた利益をあげようとするアホな連中がいるわけで。そうなると労働によって、人生を設計する可能性がかなり低くなるんですよ。世界連邦を形成し、通貨の統一をし、世界銀行が世界銀行券を発行する。 そうすればもう少し人類全体の隅々まで幸せ追求という意味では同じなんですから。これに到達するにはどうしたらいいかってことと目の前の悪徳をどうやったらできるだけ除去していけるか。そういう一人一人の強度がこれから試されいくと思います。ちょっと将来の子供っぽい明るいお話をさせてもらいました。
〇宮台さん
あの、芥さんがおっしゃったね、生殖のエネルギー。これは、フロイトは「リビドー」って言ってましたよね。これは さっき申し上げた現代思想の中でも重要な概念です。なぜかというとね、例えば、動物の場合には本能あって、エネルギーとプログラムが結びついているんですね。ところが人間の場合には、ネオティニーって言いますが、つまり本能が壊れていてエネルギーが無方向的、アモルファスなんですね。つまりリビドーというのは、性あるいは生殖のエネルギーと言われてますが、元々、アモルファス・無定形・散乱的なんですね。従って我々が社会生活を営むとき、これが密かに構造化・方向づけられているという形になっているんだっていうことですね。だからその時点で、我々は、実はかなり知らず知らずのコントロールを受けている。現にそのコントロールって必ず失敗するんですけど、人間にしかないものあるよね。多形倒錯とかフェティシズムだよね。わかりますよね。フェティシズムの9割以上は男なんですよね、編みタイツフェチか、ハイヒールフェチとか、 えーチェックのミニスカフェチとか、これ俺のことか。だから、消しゴムを愛するとかってことだってありうるんですね。多形倒錯の概念に忠実であれば。こういうことは人間にしかない。人間本能が壊れているので 生殖のエネルギーが無定形だというところに由来する。それを皆さんがまあ最近話題になっているLGBTの問題でもあるけれど、比較的ですね、社会的に方向づけられているのはまさに奇跡。その奇跡の中核部分には皆さんが知らず知らずのうちにコントロールされていること、しかし、このコントロールがないと残念だけど人口学的再生産も、あるいは社会の持続可能性もないんだということですね。さてそれを前提とした上で、我々のこの無定形が本来の力と関係するのが、僕は、先ほど芥さんがおっしゃった「闇」だと思います。「闇」はあるのか。皆さんが考えるような意味では、暗いところは闇でしょ?という問題ではなくて、闇って力の源泉なんですね。先日ですね、最近NGOに変わったパタゴニアというですね、アウトドアグッズのプロバイダーの研修に講師として関わってきました。2日間だったんですけど、トピックの一つにメタバース問題がある。メタバースってあと25年ぐらいでシミュレーションポイントを迎えます。これは朝起きた時にそれがメタバースなのかユニバース、つまりリアルなんかを皆さんには判断できないということです。って言うと、「なるほど、素晴らしいなー」じゃないんですよ。僕はメタバースとユニバースは簡単に判定できる。それは闇の力があるかどうかです。パタゴニアの人々、クライミングとかサーフィンとか、結構やばいスポーツをやっている社員ばっかりでしょ。皆さん何でクライミングとかサーフィンがそんなに輝かしい享楽を与えるの?皆さんご存知ですよね。それは死と隣り合わせだからだよ。だからサーフィンの界隈ではさ、雷が鳴った時にすぐ海岸に引き上げる奴はただのヘタレなんですよね。最後まで海に入ってる奴がえらいんですよ。でもそれは享楽を味わうことに開かれているから。クライミングも以下同様。僕はいろんな武術をやっていますけど、武術も基本、死や深刻なケガと隣り合わせ。だから輝かしい享楽があるんでしょ。メタバースにね、死の深刻な怪我の危険が実装されることはあり得ませんね。社会的に許容されてる。だって今のPCっていうかですね、ポリティカリーインコレクトだーみたいなクズの吹きあがりを見ればわかりますけども、あり得ない。だからメタバースと違って、ユニバースには、皆さんの行動選択肢によっては、いつでも死や深刻なケガの可能性から力を引き出せるんですよ。皆さんの世代は安全便利快適厨ですよね。サークルに入るとき、「そのスポーツは安全ですか?」昔だったら「死ぬかもな」「やります!」。今の皆さんにはもうないよね。終了なんです。そういう終了している皆さんであればメタバースだろうがユニバースだろうが、好き勝手に入って楽しく生きてくれってことになります。
〇芥さん
俺はほとんど「闇」について語っていたような気がする。闇って言うんでちょっと思いついてたんだけど、「テネブル」。パウル・ツェランっていう、子どもの時、収容所送りになって家族と。両親は殺されて灰になったんだけど、彼は生き残った。彼はヘルダーリンの詩をずっと読んでて、ドイツ美学のドイツ語ですね。これかなり不幸なんです。要するに、ナチズムで、六百万のユダヤ人が殺されて、それを生き残ったパウル・ツェランがドイツ語でしか詩が書けない。彼が「テネブル」という詩を書いてる。キリストが、イエスですね、イエスが十字架上で絶命したとき世界は暗黒で覆われたということから来てる。世界の暗黒っていう詩ですけど、ちょっと読んでみていい?
主よ 祈れ 私達は間近でいいます
門を 掴まれています
主よ 祈りなさい 私たちのために
私たちは 歩きました 歩き続けました
風を切り 身をよじり 水飼場へ降りて行きました
でも主よ そこにあったのは水ではなく
あなたの血でした
血はあなたの似姿を映しています
眼はうつろに開き 口はしどけなく開いたままです
主よ 私たちのために祈りなさい
私達の爪は あなたの肉に食い込んでいます
主よ 主の爪も私達の肉に食い込んでいるのです
主よ 祈れ
私たちの肉はあなたの肉です
あなたの肉は私たちの肉になったのです
主よ 祈れ
(会場拍手)
この詩が問題なのは、アウシュビッツを象徴としたあの六百万以上の死体が、ヨーロッパを支え、作ってきた残酷劇のイエスキリストの肉体と同じ価値がある、あるいはもっと重要な意味があるという、要するにヨーロッパを支えてきたイエスキリストの肉体はアウシュビッツの六百万の肉体と入れ替わるべきだという形で利用されてきているわけです。もちろんこの詩を書いた何年か後、1970年にはセーヌ川に身投げして死んでるんですけれど、その詩人は。要するに、ユダヤ系の全共闘の学生たちが、今のEUを成立させる原動力になってるわけで、EUを支えているのは、イエスキリストじゃなく、アウシュビッツの六百万の死体なわけです。あれは新たな敬虔さとして蘇ったという形をとっているわけです。それが今日において、世界資本主義という形で人類を収容所に閉じ込める経済政策になっている。生まれてから死ぬまでそこから出ないわけですよ。世界資本主義があるから。なぜならそれは六百万の死体が保証してるわけです。日本の平和運動がだめなのはわずか二十万しかいなかったからだと言ってるやつもいるけど、まあ原爆の死体ですね。それ以上に、天皇裕仁があの焼け跡へ直ちに走って行って、焼けただれた瓦礫を胸に抱いて、あの瓦礫をパンに変えたりしなかったからだ、みたいなことももちろんあるけど、これは子どもっぽい夢として。ただ、彼自身がひどくケロイド状態になっていれば、もう少し日本は存在する力を手にできたんだろうと。だから、60年代はある程度、みんな頑張って、個の強度を発揮し合う、その上で連帯ができて、最初から連帯があって始めたのではないんです。これは間違わないでもらいたい。三島が腹を切って影響を受けて内ゲバと狼たちのああいう姿を現さない悪徳に飲み込まれていったっていう意味でも三島の肉体は真っ暗だったのかな。本人は自覚してなくてね。さらにこの詩の恐ろしさは、キリスト教精神に支えられてきたいろんな美徳、知性、その他、世界に対する態度、これが全部取り除かれてきてるわけですよ、ずっと。経済のかまどは猛烈に燃え盛っている。労働者は生きたまま燃えてるわけですよ。それで灰になる。灰は貨幣と言われて15%くらいは労働者に帰ってくるけども、85%はどっかに誰かがプールしてちっともマーケットに出てこない。だから、人類共同体が成立した時には、その蓄積された労働力、要するに資本です。蓄積された接触力、これも資本です。これを、扱い方、特に貨幣というのが大変で、欲望を持った瞬間、負債、要するに、欲望を持てばその分借金になる。その分自分が灰にならなきゃならない。そしてその灰になっていく悲鳴を誰も聞き取らない。これに気づかないと、やっぱりただ働いててもしょうがないんで、とにかく僕は一応労働を拒否って形でここ何十年か生きてきちゃったわけです。これは僕の闘争です。かなりしんどいですよ。ただ認知できない体制の中で労働をするよりはいいと思っているだけで。要するに、芸術もある意味で生易しくなくて、僕らの場合、存在それ自体を深め、自分の地獄まで降りていって、まっすぐ上にある何かがこう下がってきて、ようやくバランスが取れる。だから残虐さと聖なる力っていうのはいつも同時に人間にやってくる。別々にやってくるならまだいいんですけどね。恋愛をやるとこれがよくわかるんではないかなと。恋愛の土台もありますけどね。結局、ユダヤの神は数字と量で表される神で。これはやばい神ですよ。神じゃない、ほとんどね。貨幣は人々に妄想を掻き立てる。性欲を勃起させる。要するに、妄想をすぐ芸術に変える力があるわけで。もともとそういう呪物性を持ってるわけですね、貨幣は。貨幣が貨幣だけだったらまだ扱い方がいいんだけど、資本という形で労働力や生殖力が蓄積されて全く関係ないところで利用されて、仕組まれてそこから出れなくなっていくということにもう少し僕達、意識向けないとダメなんではないかっていうのが最近の僕の結論です。「灰と、灰の灰」という戯曲を書いたのもそれがきっかけで、生きたまま燃やされていく人類たち、この人たちの、共同の家をどう守ったらいいか、当然たくさんの共同性があるわけで。
〇宮台さん
芥さんの言葉と僕の言葉は「対」ですよね。芥さんの言葉は詩、僕の言葉は散文ですよね。
詩はわかりやすく言うと力を与える言葉です。それに対して散文はあるいはロゴスは、認識を与える力です。例えば、子どもの発達を見ればわかるけど、子供は最初、コーリングあるいは掛け声のような力を受け渡す言葉を使います。カラスとかイルカとかがもってる言葉もそうで、これは認識のための言葉ではなくて警告、 集まれ! みたいなね。力を呼び起こし伝える言葉です。なので、実は詩のほうが散文よりも高等であり、散文は実は力のないものがいくら身につけたところでガラクタです。知識は僕の言い方だと、力を得た時にだけ、動機づけを得た時にだけ、前に進む力が内から湧いてきたときにだけ知恵になりますね。なので、芥さんの言葉と、僕の言葉がコンビになると初めて僕の言葉は「知恵」になるという関係にあります。僕は実はかなりディープなクリスチャンなので。いいんですよ、芥さんの先ほどのお言葉はキリスト教に蔓延していた中世的道徳主義批判で、今日のキリスト教神学は、カトリック、プロテスタントの別なくあれは全くデタラメな議論だったんだということですね。道徳主義ってわかります?必ずね、階層的な差別のために使われるんです。つまり、日々余裕のある奴だけが道徳的に生きられるのよ。イエスの教説にもあるけど、その日を生きることにすら困窮する者は盗まなきゃ前に進めない、ってことがあるわけじゃんね。だから、道徳主義っていうのは必ず宗教権力が世俗権力と結託して、自分の社会的なポジションを維持するときに出てくるんです。法則です。どこでもそうなんです。統一教会を見てごらんなさいみたいなことです。なので、もともとの宗教は、実はホモ・サケルで、ホモってヒューマンで、サケルってセイクリッドですね。聖なる存在って意味だけど、例えばイエスキリストが十字架にかかりました。これは ホモ・サケル。社会のメンバーでいるようにいて別枠。人間にいるようでいて人間ではない存在として扱われるのがホモ・サケルで、イエスはホモ・サケルとして扱われて、ローマで死んだわけです。実は闇の力はホモ・サケルからでてくるんですね。社会学者でそれを概念化したのはマックス・ウェーバー。マックス・ウェーバーのマージナルパーソン。周辺人っていう概念がそうです。変革の力、社会を揺り動かす力は必ず周辺からやってくる。あとでですね、妹の力の話にも触れたいと思いますけれども、例えば今、日本で男と女とどっちが周辺ですか。女でしょ。だったら変革は女からしか来ないよ。だって男はステークホルダーだもん。アメリカでもどこの国でも起こってるけど、「男女平等化すると、ポジションがなくないじゃないか!」 「移民平等化すると俺のポジションが無くなるじゃないか」ってクズが湧いてるでしょ?ということは周辺にいる存在にしか社会は変えられない。ただし、その周辺にいるやつが単に中心に行きたいだけだったらいわゆるオタサーの姫、高市早苗みたいな奴になるわけです。以上です。
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(休憩)
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〇宮台さん
先ほどね、芥さんが妹の力についておっしゃったんですね。実は妹の力が、吉本隆明『共同幻想論』によると国家の起源なんです。ちょっとその話をします。なぜその話をするかというとですね、我々が力をめぐるコントロールにどういう風にあいやすいのかっていうことがよくわかるからですね。もともと1万年以上前には、僕たちは遊動していました。漂泊民でした。狩猟採集をしていたんですね。その頃は、マックス150人の集団で移動していて、従って、もちろん全員の顔も来歴もちゃんと記憶されている。それをリアル血縁の結合体と言います。一般にはバンドと言います。それがですね、まあ1万年ぐらい前から順次定住が始まることによって規模が拡大する、つまりバンド連合ができるんですね。これをクランという風に言います。クランの規模が大きくなるので、さして 知らない人間たちと仲良くして、さっき言ったように定住の法生活をするんですね。その時に、リアル血縁じゃない疑似血縁がつくられます。これをトーテミズムといいます。うちのトライブの神様は鹿、うちは虎とか熊とか。それぞれの間にはこういう関係があります。ところで最もですね、古いトーテミズムは原母、オリジナルマザー、我々は違う部族だけど、本当は同じ母から生まれている。想像的な、虚構的な起源を捏造、あるいは共有するんですね。なぜオリジナルマザーなのか。それはさっき芥さんもおっしゃった、例えば、農耕における種をまいて芽が出て育つ。それをさせている力。それと母が子を産み育てる力が同置されたからだと考えられるからですね。次にですね、ちょっと間飛ばしますけど、吉本隆明が国家の起源だと考えているのは、日本で言えば、ヒメヒコ制です。シャーマン、これ妹ですけど、シャーマンが述べたなかなか理解できない、しかしなんか力に満ちた言葉を弟、あるいは兄、兄弟が翻訳するんです。これはですね、イキガミさま制ということで、兄の言葉をパラフレーズするという形もあります。そう、今の芥さんと僕の関係がイキガミさま制。もちろんイキガミさまは芥さんということになるんですね。ところでさっきの詩と散文ですけど、力に満ちた言葉をしゃべる。それをですね、他の人に伝えることができるような言葉にパラフレーズする。この関係、妹と兄、妹と弟の関係が国家の出発点だと考えるんです。それはどういうことかっていうとね、クラン同士が農地をめぐって、あるいは所有をめぐって争って武力衝突、戦争になったとしますね。そのときに身体的な優越性がある男が武闘を指揮する。そこで生じるのが母系父権。戦争しなければ、パワーを誰が持つのか、それはゲバルト的なパワーではない。もともと我々につらい法に従う定住を支える力を誰が与えてくれるのか。それがオリジナルマザーで。その継承線がつらい毎日を生きる源泉なんだという考えなんですね。戦争があると、妹、あるいはオリジナルマザーから沸く力を、武将、ゲバルトリーダーが使う。このときに、力が湧く場所、あるいは時空をセイクリッド、ホーリネスといいます。それに対して、その力を使う時空を俗といいます。これは非常に大事な図式です。力が湧いて使う。湧くのは女、使うのは男、っていうのは、初期の国家の形態だったっていうのは吉本の考え方です。ここで実は、バトルあるいはバトルフィールドでの権力行使とは別に、そもそも、そういう権力行使をしようとするエネルギーがどこからくるのってところで、妹、オリジナルマザー、これが設定されているという形です。これは非常に優れたモデルだと思います。今日はちょっと場が場なので、あまり性愛の話はしたくないんだけれども、一つだけすると、最近引退宣言をされたアダルトビデオの大家、代々木正氏、この人も同じ図式を使っている。性交において飛ぶのは女。だから僕のことばで言うと、女が飛び、女の翼で初めて男が飛ぶ。さらに折口信夫の図式ですけど、我々はもともと「ケ」つまり「気」、これエナジー、力のことです。ケがあって、そして生きているうちに暮らしているうちに気が枯れるんですけど、気が枯れるって、「気」が枯れる、力が枯れていくんですね。「気」が枯れた状態を回復するために、お祭りをする。これを「ハレ」といいます。
「ケ」→「ケガレ」→「ハレ」→「ケ」→「ケガレ」→「ハレ」
これを回しているという風に考えて、その中に最も古い天皇の機能を見出すということになっているんです。その天皇の由来は、折口によると、外来のものです。周辺から来たものです。であるがゆえに力をもったのだ。あるいは力を溜める袋になったのだってそういう発想をしているんですね。なので、さっきの話と関係するけれど、村上龍の「すべての男は消耗品である」っていう小説がありましたが、30年くらい前ですけれども、この観念、命題は、とても説得的な普遍的な説得性があるというふうに思います。だって、皆さん、見てください。日本の政治って 9割が男ですけど、なんか、ショボいっていうか、ヘタレっていうか、劣化した猿っていうかすごい状態だよね。これは男だからじゃねーのって、女の人たち思いませんか?はい次にイエスの話ですけれども、これ長くすると時間がなくなるけれども、イエスはですね、ガリラヤで実は生まれ育ったと思います。ナザレのイエスとかって言われています。ベツレヘムで生まれてとか。この話、僕は粉飾決算だと思います。ダビデ王の末裔だということを正当化するために後から粉飾されたと思います。聖書には4つの福音書があります。成立順に、マルコ、マタイ、ルカ、そしてヨハネですよね。最初の三つは共観福音書と呼ばれ、つまり同じ見方をする福音書と呼ばれ、その内容は物語的な粉飾決算です。周辺にいた奴がどういうふうに中心にいったのか、どんな苦難の物語を経て処刑されて3日後に復活して神となったのか。それを粉飾決算的に描き出す。ちなみに教会が利用するのはマタイです。復活譚を含むからですね。しかし、ヨハネ福音書はまったくちがった立場です。はじめに言葉ありき、つまり、神はイエスという肉を通じて人々に語った、という前提にたちます。これはね、あまり信仰的に思わないでほしいです。イエスの言葉は、イエスのことを全く知らなかった者たちが、そこに立ち会うだけで電撃ショックを受けてしまう。ガリラヤというのはイスラエル王国の淵にあります。一番北にサマリアという被差別民の地域があって、これはしかしユダヤ人なんですけど、その外側にガリラヤがあって、ガリラヤはどちらかというとギリシャに近い。バイリンガル。ヘブライ語、当時アラム語ですけど、アラム語とギリシャ語のバイリンガルなんです。イエスもバイリンガルだと僕は思います。なので、ピラト―、いわゆる御代官様が「お前が一言「自分は神の子ではない」と言ってくれたら私はすぐにお前を釈放する」「お断りします」はい。これって公衆の面前で話されてることなんだけど、おそらくギリシャ語で話してたんですね。すると、周りの人間にはわからないということになると思います。いいたいことはね、こういうことなんだ。イエスの言葉は特殊な言葉で、神の言葉がどうかは別として、誰もが電撃ショックを受けたことは事実ですね。その理由をヨハネ福音書は記している。どういう言い方をしたのか。でもそれは長くなるから、「思い出させる」ということだけ言っておきましょう。イエスの言葉を聞いた瞬間、人々はいろんなことを思い出し、「そっかあれはこういうことだったのか」あるいは抑圧されていた記憶を思いだす。「なんで私はこれを忘れていたんだろう」というふうになる。その思い出しによって、思い出した人が、失われていたはずの力を回復するというメカニズムを使う。イエスのこの人々に力を与える言葉のメカニズムに注目するというのが、今の福音書研究の最先端なんです。申し上げたかったことは、ホモ・サケルとしてのイエスに力があった。ただ、ホモ・サケルだけで力があるのではないです。イエスは、ホモ・サケルであるが故に、ある言葉を使ってきた。そのことによって多くの人に激震が走るということが起こった。これは演劇、あるいは芥さんと最初にトークをしてから僕はすぐに映画批評家になって、もう四半世紀映画批評家をやっていますが、芝居や映画を評価する上で非常に重要です。それを日常の延長線上で受け取るのか、それとも日常を普通に生きてる皆さんが電撃ストライクを受けて傷つくのか。僕に言わせれば、ロマン派の後の定義そのもの、芸術の定義そのものです。レ・クリエーションというのは 週末のシャワーを浴びてまた ブラック企業に戻ることです。そうではなくて、そういう生き方そのものを粉砕されてしまうような、そういうことをしている自分が傷つけられて、もう同じことができなくなる。そういう衝撃を与えるものが芝居や映画、あるいはもともとの芸能の役割でもあるという風に思います。以上です。
〇芥さん
イエスがなぜ処刑されねばならなかったか。神を父と呼んだからなんですね、最初に。次に、父は私に新しい約束をもたらした。それまで使っていた象徴への契約や約束が反故になるわけです。契約は破ったら死ぬわけで、やみくもに新しい契約を持ってきた美青年がいた。最初は、美しくて面白かったけど、だんだん危険な人間になってくる。特に戦争の焼け跡状態ですから、神の住まう神殿が闇市場になっているわけですね。あなた方は私の父の魂の休み場を、モノの売り買いに変えてって激怒して、売ってたハトなどを飛ばしちゃうわけ。それで実際的な力を、単なるポエジーや観念だけでなく、現実で使ったということを自体がまず危険人物扱いを受ける。新しい約束をもって来ようとすると必ず危険人物扱いを受けて、ロシアではもう何人も殺されたり監禁されたりして。だから、なぜ泥棒と一緒に処刑されたか。イエスは泥棒したって言うんですよ。金持ちはその代わり無罪で放免されるわけです。要するに、今でいうブルジョワ経済です。お金は盗まれてもまた稼げば元に戻る。でも神の言葉は一度盗まれたら、勝手に変えられたら、もうこれは取り返しがつかないからなわけですね。特にあれはモーゼの言葉からきてるから。絶対的な原父との契約だから。じゃあ、なんでそんな危険なことを彼がしたか。それは妊娠中にひどい目に遭ってるからです。マリアがね、戦争に遭って。弱いものに向かって新しい約束を持ってきて。だからイエス以来、人間は内部に人間を持つことができたんです。いわゆる実存の始まりです。それまではあっけなく死ぬんですよみんな。ラテン文化だからね。特にギリシャの神々というのは欲望を明晰にしている力だから。ぐちぐちやらない。でも全ての人間は神だったことを覚えてないわけでね。そこでイエスは新しい約束をあなた方の心の中に種をまいて産もうとした。それが「言葉」です。だから実存主義は言葉と共にある。だからイエスが最初に言葉ありきって言うのはそこらへんでね。ヨハネ福音書は一説によるとね、イエスが死んで200年近く経ってからギリシャ語で書かれているんですよ。アラム語か。ギリシャ語の地方言語ですけども。それで、マグダラのマリアがわざわざ出てくる。ヨハネにしかでてこないですね。マリアが十字架に下にくる。イエスの母親が。それでそのかたわらに、マグダラのマリアもいっしょに来て「見るがいい。これがお前の母だ」こう言う。そのあとで弟子たちがみんなビビっちゃって、マグダラのマリアだけがイエスが死んだあとビビらずに、みんなを叱咤激励して、イエスの教えを守り通す誓いを立てたわけです。2つの力が新約聖書にはあったと思ってます。
〇宮台さん
すばらしい。時間がなくて話せなかったことを全て話していただきました。
〇司会者
企画時間の16時半を過ぎてるんですけども、17時まで行けますのでここからは会場からの質疑応答の時間にさせていただきたいと思います。マイクを担当者持って行きますので質問がある方はお手を挙げてください。
〇質問者①
こんにちは。抑圧的に与えられた言葉から自由になって、コントロールされない自分を作る、探っていくっていうようなお話が出たと思うんですけど、そこでそのコントロールされない自分を作るっていう行為っていうのは、法の外だとか 芸術だとかっていう分野にも深くかかわってくる話だと思うんですがそういう行為の危うさというか、危険性というところもあると感じまして。というのもやっぱりそれは真理に迫っていったり、秩序をいちいちこう解体していくような作業だと思うんですが、それは一方では高尚な人間だとか芸術家だとかを作っていくかもしれないし、また一方では 単に不道徳な人間だとか、悪逆非道な犯罪人だとかっていう風な人たちを作ってしまんですけども、その2つを分ける基準というかその2つを分けるものは何なのかっていうこと、あとその宮台さんがそのコントロールされない自分を探すことっていうのは地獄であるという風におっしゃったと思うんですけど、そういうなぜ希望のない表現をされるのかなっていうことをお聞きしたいです。
〇宮台さん
皆さんがわかりやすいように言うと、コントロールされない自分を探すんだけれども、それが自分であるというふうに意識する限りは地獄だね。自分は傷ついたとか思い通りにならなかったとか。でも、それは第一次近似の話でね、もう少し事態に即して言うと、ギリシア的に生きるということなんです。実は新約聖書はすべてギリシア語で書かれていて、福音書はギリシシャ哲学、万物が国非常に大きな影響を受けています。ギリシャ哲学、あるいは初期ギリシャ哲学が敵として意識したのはある種の形、ユダヤ教の典型的な形です。悪いことが起こったのは神の言葉を裏切ったからだ、だから神の言葉、つまり立法に従えば良いことが起こるだろう。このイフゼン(IF-THEN)センテンス、条件プログラム、これを ギリシャの人たちは嫌いました。それを指し示しているのが数々のギリシア悲劇です。一番皆さんにわかりやすいのはオイディプス王です。こうすればいいことが起こるだろうと思ったテーバイ王が父を殺し、母と姦淫するという予言を避けるために努力をした結果、父を殺し、母と姦淫することになりました。つまり、世界はそもそもだデタラメであり、条件プログラムのようにはいかない。じゃあ何が善いのか。それは内から沸く力に従って、主体の消えた状態になることです。社会学的に言うと、当時のギリシャは常時戦争をしていて、アテナイでも戦争奴隷が7割くらいの人口を占めていました。これ全部戦争した結果の奴隷なんですけどもね、多分集団密集戦法、ファランクスっていう形で行われて、甲冑で接近性で集団で密集して斬り合うっていうものです。その中で勝つ人間を称えた。そこでは、ああすればこうなる、こうすればああなるっていうことではなくて、ただ、阿呆なくらい力が湧くやつが強いっていう風に考えられているわけです。ていう風な説明が社会学者がやることなんだけど、さっき芥さんがおっしゃった実存に注目してみると、自らはどうしようもない流れに駆られて、その流れ故に力が湧くことですね。僕の考えはですね、カトリックの最も中核部分には、「私が皆を裏切らないようにどうか見ていてください」というのがあります。さらにそれを補強するものとして、「私はあなたのものです。つまり私が間違えていたら直ちに地獄に落としてください」という祈りがあります。「言うことを聞いたので天国に入れてください」これはありません。これは間違った道徳主義に堕落したキリスト教の解釈です。さて「私が皆を裏切らないようにどうか見ていてください、見ていてくれればれば力が湧きます。その力はあなたに由来します。」これは個人が強い意志を持って前に進めばいいという話とは違いますよね。これを小説化としているのが太宰治の「走れメロス」です。「走れメロス」では、福音が「せせらぎの音」です。「せせらぎ」の音を聞いた瞬間に、完全にヘタレて立ち上がれなかったメロスが、俄然、力が湧いて立ち上がり、セリヌンティウスのもとに駆けつけます。ここには、ある種の自己中心主義、自分が頑張ればなんとなるというたわけた発想、馬鹿げた発想はありません。以上です。
〇芥さん
イエスの肉体、教えから実存主義が始まったっていうのは、僕の偏見と独断と時間を超越した一つの感性の連続性みたいなものが私たち人類に絶えずふれてるわけです。ただ狂気っていうのは社会がなければ生まれてこないので、野生の状態なら狂気は存在しないわけですね。社会が作り出す狂気、それを覚醒させるもう一つの狂気。ローマに占領されて一つの狂気に陥ったある民族から現実を新しく超えていくく方法としてイエスが誕生する。その時すべての社会から10年間くらい彼は離れて距離を作って切断して、全ての環境を。母からもです。それで10年後にガリラヤのふもとに来て、「お前たち魚が獲れないなら私たちについてきなさい」「でもそこはさっきやって一匹もとれなかったところです」「いいから今投げなさい」すると大量に魚が取れる。その時イエスがあの有名なセリフを言うわけです。「あなた方魚を探す者よ、私の後に続きなさい。人間のとりかたを教えてあげよう。」まあ危険と言えば危険ですけどね。美しいと言えば美しすぎる。たしか、ガリラヤのふもとの湖はきれいらしくて。「テオレマ」という映画ありましたね。パゾリーニの。見知らぬ美青年がやってきて、一つの家族が崩壊するんですけど、ブルジョワの。それが美しく描かれている。その青年とその家の息子が知り合ったのがガリラヤなんですよ。それからカトリックはお魚のマークがつきますね。それはその漁師たちが最初の弟子になったからです。なぜこんな話をしたかというと、外部で苦難に耐えて、悪魔たちとある意味ではかなり試練に満ちた質疑応答があるわけですね。クオーテーションみたいな。いろんな難問に対して、全て退けて。それはどこどこに書いてありますという風に。だから旧約聖書をすべて暗記していないとそのテストに受からないわけですけどね。ただ旧約聖書が幸せにしないことに気づいた。親のいない子供たちや傷ついた者を。まあ実際病人を癒してるイエスは好きじゃないとシモーヌ・ヴェイユなんかは怒るわけだけど。それはヴェイユの空虚がすごすぎて、そういう妥協ができないという意味なんだろうと思っています。いずれにしろ、変革するなら、社会と距離を持って、その距離を狂気に変えるというか、何かに変える。芸術もある程度そうなんです。自分自信をちょっと秘密の夜に日に裸にして全部点検しなきゃならない。天皇は、その芸術を作る意味を要求しているわけです。だから自分自身を点検し抜いて、踏査し抜いて、悪魔が何を質問してくるかをちゃんと考え抜いて。ちょっと話ズレれちゃったかな?
〇宮台さん
芥さんのお話を補足すると、危険は除去できる。イエスは僕を含めて、今まで長い歴史を通じて、様々ないろんな人間に力づけをようとしてきた。しかし、ご存知のようにですね。先ほど申し上げた中世の道徳主義のもとで魔女狩りが行われたし、あるいは十字軍の遠征での大虐殺も行われたし、あるいは中南米のですね、原住民狩りもイエスの名のもとで行われたわけなんですね。さてこの危険はどこに由来するのかを、実は自分のオツムで考えてほしいんですね。暫定的な答えを言いましょう。冒頭に芥さんのおっしゃった「私は命令されない」ということが重要です。私は自分が善だと思うこと、艱難辛苦考え抜いて、これだけは善だろうと思ったこと、それをやる。それを力づけてくれる、強めてくれる何かがある。流れがある。言葉がある。そう考えるべきでしょうね。なんか偉い人が言ってるからその通りやります。死ねってことです。
〇司会者
他に質問ある方。時間があんまりないので本当にあと2、3問ぐらい。
〇質問者②
ありがとうございました。芸術がその宮台さんの言葉でいうトランス状態に人をおいやるような魔術的な力を持ってるって事はわかるんですけども、それと、その一方で宮台さんが書かれた「終わりだけ日常を生きろ」っていうのが正反対のような気がちょっとしてしまうんですけど。さっきのケ・ケガレ・ハレとかがあって、カルトの人っていうのはいわばずっとハレにいる状態だと思うんですけど、主体の消えた状態になるということを評価するんですけど、他方で、「終わりなきゃ非常に生きろ」っていうのとどういう関係があるのかっていうのをお聞きしたいんですけど。
〇宮台さん
10秒でこたえられるよ。あの本の言ったことは意味を求めるなということです。多くの人は、「私は無意味な生を生きている」それに対して、「この活動に連なれ、そうすればお前あるいはお前の存在に意味が与えられるだろう」これはまあ情報商材詐欺と同じです。以上です。
〇司会者
次の人。
〇質問者③
今回のそのトークイベントのタイトルにもなっている芸術かテロかっていうことについて、最初の方に芥さんが芸術かゼロからではなく芸術としてのテロ、あるいはテロとしての芸術っていうことを言っておられたと思うんですが、実際、展示をやったりとか 芸術活動をしようと考えた時に展示っていう形式を考えると限界が出てくる。その限界っていうのは基本的に展示を見に来るお客さんが来るってことですね。それはしかも結構無視できる、普通に生きてる人とかは来なくてもいい。そうすると作家側としたらたくさん展示やってなんとなく、最初の方に宮台さんがおっしゃられてたと思うんですけど、主知主義的な方法で社会を良くしていこうという発想にしか立っていかなくて、そうではなくて一発で穴を開けるような、脳に穴を開けるようなことっていうのは、そういうことを考えようとすると必然的にテロに近くなってくるわけです。テロは一発しかできない。ほとんど一人でやる場合は。どうすれば効果的にダメージを与えられるか、不可逆的なダメージを与えられるかということに発想が言っていくと思うんですが、この一発でいくみたいな、、こういった発想っていうのは今有効でしょうか、有効ではないでしょうか。そういうことをお聞きしたいです。
〇芥さん
有効でしょう。少なくとも芸術家であることが山上君のパフォーマンスを生んだ瞬間、恥ずかしかった思いがあるから。彼がやったことはテロじゃなくて革命なんで、僕にとっては。共同体が失ったものを、良きものをもう一度取り戻したというようなね。呼び覚ましの力っていうのが、あの場合、一発、白昼の。正しさと言えば正しさですね。芸術にもそれが必要かというのは、いろんな人が試行錯誤をするんで、ただ試行錯誤の地獄を自分のものにすることは芸術の場合できるでしょう。それが重要なんだと思います。それとキリスト教の話が出たんで言っとくけど、キリスト教も2通りはあるからね。ユダヤ・キリスト教とギリシャ・キリスト教と。今日はギリシャ・キリスト教的な方でしゃべっていますが。ピューリタンが経済活動を認知したので銀行が生まれて資本主義が生まれてくるわけです。それに対してギリシャ・キリスト教の方は文化や芸術や愛のお話ですね。砂漠の獰猛な民に向かってギリシャの愛を伝えた役割がイエスにはあって。それと、もともとイエス像を形成するときに、要するに新約聖書が完成するときに、ギリシャのディオニュソスやアポロンやヘレネス的な三人の美青年のトリプルイメージになるようにイエスを作ってきているというところはありますね。ただ、イエスはほとんどアドリブだけで生きていたわけで、それが百発百中なわけです。だから、一度僕台本も何も書かずに2・3時間即興だけでやったことがあったけれど、かなりキチガイになってきますね。終わりの方になるとね。試して良かったと思ってます。
〇司会者
最後5分以内になっちゃったので、お二人から一言ずつ頂いて終わりにしたいと思っています。
〇宮台さん
表現とかね、あの芸術って難しいです。食わなきゃいけないから。でも例えば、僕はオーチャートおばちゃんとかと僕は言っていますが、オーチャートホールに行くとですね、オペラをみて綺麗に着飾ったおばちゃんとかが「素敵だったわね。」これクズでしょ、本当に。電撃ショックを受けた場合、僕は2回の展覧会あるいは別の機会ではありますけれども、もう時間が消えるんですね。ずっと見ていることになります。一つはバンドホテルで、もう一つは荒木経惟、アラーキーの写真集を日比谷図書館分館中央図書館で書庫で見た時です。朝から晩までずーっと一つの写真集を見ていました。芸術ってのは、従って体験なんですね。なので、実は芸術作品じゃなくてもね、夕暮れの公園でパンダやゾウの置物というか、遊具が置いてあるのを、ただじーっと見ているだけで覚醒してしまうことがあります。僕にはありました。そこでは実はアート体験がなされているわけですよね。しかし、今日は詳しい芸術史の話はしないけど、芸術史の勉強ちょっとしてみてくださいよ。結局、産業革命によって生じたブルジョワジー・マーケットを当て込んだブローカーたちによる、最もらしい口上、キャプションによって市場が形成されたのが特にロマン主義以降の芸術。僕らが芸術というのはそれです。そこでその口上の一つとして先ほど申し上げたような人々を傷つけ、元に、あるいは元のように生きられないようにするものが芸術ということですね。これもブローカーのキャプションなんです。でも何もかもですね、否定すると何もできませんよ。資本主義的市場経済否定して、皆さんマルクスの本ってどこで読むんですか?僕の本どこで読むんですか?芥さんが六年前ぐらいに書かれた、「混沌と抗戦」っていう本にですね、全共闘と三島との対峙の振り返りがあります。これも本当に詩に満ちていて僕には力が湧きますが。「アートだと書かれているから」、「美術館に置かれているから」アートだということはないです。でもそれを七面倒くさくする戦間期のジャクソンポロックのようなコンテンポラリーアートになると、これはアートを知ってるやつにしかその意味がわからないというタワケたものになるんだよね。公園に置かれたパンダの遊具のようにはいかないわけだ。なので、皆さんは資本主義市場経済の中でオーチャートおばちゃんみたいなバカな連中を騙して金を取りながら電撃ストライクを受ける、歩留まりは非常に低い。数十人に1人の人間たちを当て込むしかないんです。
〇芥さん
誰か最後の質問1人!
〇質問者④
ありがとうございました。昔の芥さんと東大全共闘の三島さんとの話について、ちょっとお聞きしたいんですけど、解放区の話を三島さんと芥さんがされてて、三島さんがその継続性ってものに着目しているのに対して、芥さんは解放区の中には時間も空間もそんなものないんだって話をしていたかと思うんですけど、これって芸術の話とすごい近いなと僕は思ったんですけど、それで今、芸術をペンキでバシャーンってやる活動家のニュースが、最近されていますが、芸術ってものが物質として表象された時に、さっき言ったようなロマンみたいな、あとは価値の転倒、意味の転倒ってものを失って、永遠の永久にある物質として表象された時にその芸術は芸術として存在できるのかっていう 非永遠というものが、闇としてその現実に意味を与えてるのか、それとも芸術が永遠であるっていう命題が成り立つのかってことについてお聞きしたいです
〇芥さん
演劇の場合は、そのステージはやはり一つの解放区でなければならんのですよ。だから宮台さんが芸術が生まれる現場で魂がどんなだったかを想像できない奴は芸術をみるな!みたいね。それ以外はクソだというのは、確かにそのとおり。ユダヤ人なんかはクソしかしてないと思うから。
私に言わせれば、「芸術は、本来、交換不可能なものだ」と言いたいところがあります。例えば、アルタミラの洞窟に倒れた人間の絵が小さく書かれている。何世代にも渡って描かれて、重ね塗りになっていますね。マーケットがないんだから交換不能だって言われればそれまでだけど。だけど、あそこに立った瞬間に、芸術が現存するという、とてつもない力と震えがやってくるっていうのはだいぶ後で記述してますけど。小学校の時あれを見てから、絵がある世界と、絵がない世界、もうそこで区別してるんですけどね。絵がない世界と、絵がある世界の両方にまたがってたのはヴィンセント・ヴァン・ゴッホで。彼の絵は一枚もパンと交換できなかった。交換価値ゼロという潔さがある程度ヨーロッパを作ってるところもあるし。要するに、イエスが素足で歩いたあと、くつを履いて追いかけていくゴッホがいるわけです。いろんなものを見ながらそこに自分がイエスの光を感じる魂の休み場がやってくる。それを急いで絵にするわけですね。ジャクソンポロックの、あいつの絵を見てから僕は画家になる夢捨てましたから。こんな発想で絵を描く奴がいたらダメだ。
〇宮台さん
おっしゃる通り。
〇芥さん
だから今でも尊敬してますけど。なんか答えになったかな? 解放区に関しては芸術には不可欠だ。だから芸術家はみんなアナーキストにある。自分の恋愛を、国家を超えたものにする。センスだけでやるとシュルレアリスムになっちゃいますね。三島さんは時間に拘泥する人だから一ヶ月持つ解放区と三日しか持たない解放区では全然違うんだって言いたいわけです。闇の量が違うって言えばそれまでかもわかんないけど。あとはだいたい疲労するわけだから。存在が衰弱するわけです。だから3分でも3時間でも3日でも同じ価値だって、僕は言ったわけです。「解放区」は行動ではなくて、行為です。アクション。そういう意味では演劇なんかに近い。非日常をアクションする。おまえらの道徳や法律はここに介在できない!という聖なる空間をつけたわけです。芸術かテロかをもう少し言い方変えてくれないと、一生懸命下品になってしまうテーマを掬い上げるんで、宮台さんなんかはイエスの話を持ってきたりしたわけですが、両方ともエロスが深く関わってるって事はわかりますよね?殺人はエロティックなものなんでしょうね。エロスとタナトスが一つになる恐怖とエロティシズム。三島の場合そこへ行きたかった。だからあれはテロだね。山上くんの場合はテロじゃない。何度も言う。芸術でもない。じゃあなんだ?革命です。共同体を正義に向かって、目覚めさ、改めさせようとしたわけです。だからテレビでも平気で取り上げるようになったし、全滅したジャーナリズムも少し息を吹き返しつつあるし、ここでこうやって堂々と山上くんを弁護する場が大学の中に生まれたりもするわけです。だから脳髄の中でもいいから解放区を持たないと、こういう悪い時代は生きていけなくなるんじゃないかと思います。政権それ自体は嘘をつき続ける。変な時間の持続だけ成立していて、空間も何もどこにも見当たらなくなるから大変なことになる。絵を描いてても、絵が成立してくる現場が重要なんです。生の現場だからね。もちろん死がいろんな形で介入してきます。介入していた死をもう一度集めて、こっちの秩序に合わせて配置換えをするのは、建築土木的な力も必要とするし。短い時間だとこれはちょっと難しい問題がいっぱいですね。
〇司会者
すみません。ということでですね、17時も少し過ぎて しまっているので、終わりにさせていただきたいと思います。本日はお越しいただいて誠にありがとうございました。