アントニオ猪木
講演会「俺のようにあつくもえろ!!」
プロフィール
アントニオ猪木(プロレスラー、実業家、政治家)
1943年生まれ。本名:猪木 寛至。燃える闘魂。
(以下、講演録)
・濱田、石坂両名による挨拶
会場≪いのきボンバイエぼんばいえいのきいのき≫
・そしてアントニオ登場
会場喚声
(ア猪)どうも皆様こんにちはー!
プロレスのリングに上がるような気分です!!
背広姿じゃいけなくてタイツに着替えてこようかなんて、とにかくみんな活気があるんでプロレスのリングでもそうなんですが、お客さんが燃えているとこっちも普段出さないような力をだしてしまう。今日は本当は一時なんでしょう、開始がね。プロレス見てもらってますか、ハイ、先だってブルーザブロディとやったんですかね。なかなかでてこないんですよ、あいつがね。みんないらいらさせて、本当はみんなアントニオ猪木がこんな学校来てくれないと思ったんじゃない?忙しいしさ、きそうもない。でもさブルーザブロディじゃないけど、ちょと間をおいて 実は交通渋滞を起こしまして、えー今日のタイトルがまた何だったけな、俺のように燃えてみろだって、難しいね。
えーまああのときどき最近は大学とか色んな所で講演を頼まれるんで、本当は一番しゃべるのが苦手で嫌なんですが、熱いラブコールを行いましてね、いや、あなたの話を聞きたいんだとか、最近では口説きが上手でね、でもうしょうがないや、いいやって、本当は今日はシリーズ中で横浜で試合があるんでね、とにかく試合の方はさておいて、みなさんの熱いあれに答えようと思って、今日はまた何をしゃべろうかと思って俺もくる途中、考えたんですけどね、だいたい熱い熱気で、だいたい連帯感できたね。普通まじめな事しゃべってても聞いてるほうは横向いてたりして、先だって京王プラザで今日のIWGPタッグシリーズのオープニングがあって、その時に若い人を集めて色んな話をしたんです。私が。で色んな話をして、お前わかったなって言ったら、いいえ、ぜんぜんわかりませんって、みんなだいたい16才から22,23までいるわけで、中には30才までいるんですけど、そういうわけで、お互いが一生懸命しゃべっていても、通じないこともあるわけで、今日はどのレベルでしゃべればいいんですかね。
だいたいこう、みなさんがあっ消えちゃった(笑い)あっ、えーよく小学校の講演とかですね、それから、また消えたな。
だいたいこう古いから、全部古いのかな、大丈夫?小学校に行ったり中学校とか、今日みたいに大学とか、それからだいたい老人ホームとかもあるんですけど、小学校なんかの場合はだいたい1年生から六年生まででしょう、それでどの位プロレス見てるか聞くわけですよ、そしたらだいたい1年生なんかみていない そして6年生なんかになると生意気なこというわけですよ、で、こう寝そっべてね、話になんない、でしょうがないからリングに上げて、リングに上げてじゃなっかった(笑) 今度はもう殴り合いになったりしてね、で中学になると色んなこと聞くのね、お母ちゃんとうまくいってるかとか
大学のこういうあれいくとね難しい話とかしてね、アントニオ猪木がやってる事業、しってます、何かで老人ホームいくとね、話はいいわけ、体にさわって健康にあやかりたいと、ま、そんなところで来校挨拶が終わったところで話を始めましょうかね。
ま、今日はタイトル通り俺のようにもえろったて難しいわね。
ちょっと子供のころのね、普通のおいたちとちょっとちがうんだよね、でまず最初にプロレスラーになりたっかたんだよ、、私は、で世界一の牧場主になりたいと、で、子供の頃のそういう夢をどうやって実現していくかということをちょっと話してみたいと思いますが、え、まあ、子供の頃はふつうにうまれまして、5才の時におやじをなくしまして、小学校あがったころはだいたい前から10番目というのかまん中よりちょっと前ですから小さい方だったんですよ、2年、3年と少しずつ大きくなって3年、4年くらいからガガガガと大きくなってね、寝て起きると1センチくらい大きくなってね、 で毎日、こうね、測るわけだけど、兄貴が11人兄弟でしてね、2才くらい年の違った兄貴がいるんですけど、とにかくおいこしていったわけ、で兄貴が必死になって背のびするんだけど、一晩たったら、俺の方が大きいわけでしょう。で小学校卒業するころには一番学校で大きくてですね、で、その頃はすもうも強くて、勉強の方はどっちかというとぜんぜんだめだったんですけどねえ、とにかく中学に上がりましてね、バスケットボール部に入りましてね で兄貴が弱いもんですから、とにかく体が大きくて、中学に上がった時に大学生の学生服が着れなかった。で、しょうがないから横浜のあのう打毛山というところに進駐軍の払い下げがあるの、進駐軍て知ってますか そこで黒い背広を買ってもらって、黒い背広に黒いネクタイでそれで学校に通ったんです。で、あの今度はくつがないのね。しょうがないからくつ探したんだけど、ぜんぜんないんです。たまたま兄貴が大学の空手部にいましてね、兄貴鍛えるために、ほうばに鉛をいれるんですね。そのほうばをはいて、黒い背広をきて、ネクタイしめてね。それじゃなくても背が大きいのにねえ。俺は同級生が俺の脇の下くらいになちゃって、それで同級生が俺の手にぶらさがって学校に行ってね、それでおいこしていくとみんながおはようございますってあいさつするのね。それでまあそんなことでね、また切れたぞ、だれかじゃまする奴がいるな。
聞こえる、そっち、大丈夫?
え~、そういうことでまあ私はバスケ部にはいったんだけどその動きがにぶくてね、先輩からボールをガーっと顔にぶつけられて、そのままだまってね、そいつのところのいってバーとぶつけたら、あばらがおれて、でその時退部させられて、で、なんとか、しょうがないってんで、兄貴が心配しましてね、なんか、いいスポーツないか、しょうがない、で、陸上部の先生を紹介されたのが、えー、でホーガンを与えられまして、ホーガンならいいだろう、だけどそれまで、なにか、ぼや~ として、自分のほうからもえるのがなかったわけですが、そのホーガンを与えられたら、何でかわからないけれど、こう、一生懸命なげたんです、最初はその辺におっこっちゃうわけですよ、ポーンと、でもね、なんか、こう力をだすのが好きだから、一生懸命、するとね、少しずつ、こう、記録がのびていく、それが楽しみでね、もう熱中しましてね、あけてもくれても、勉強しなかった、ちょうど私どもの学校が横浜の、えー、ツルミ区というとこで、富士山が、ちょうど、今ごろですけど真正面にみえましてね、本当にきれいなんです、富士山へむけていつも投げてた、本当にとどくと思った、まあ、そういうことで、自分がうっせきしていたエネルギーがぐわぁ~と表面にでてきてね、まあ、あの、ふつうは試験のじきンなると、えー、そういうクラブ活動は中止になっちゃう、ところが私だけは特別に許可してもらって、そいで、あの、授業がおわるのをまってましてね、掃除だけは私が全部やっちゃう、机を後ろからいっぺんにずーと、そいで、こん位ズダーっと、それだから勉強はできないんだけど、クラスから、みんな、たよりにされてた、その部分だけだね、そいでまあ、とにかく、自分が、はやくホーガンを投げられる、朝は、学校にいくのが、一時間位、必ず、遅刻しちゃう、なんでかっていうと、たいへん広いうちでね、えー、かやぶきで、庭も広い、そ
の掃除をして、それで、ぞうきんがけをして、それからいくわけです、学校が嫌いだから、だんだん、こう30分ぐらいかかるとこですけど、歩いていくのに、遅くなるのね、歩調が、と、だいたい30分くらい、学校におくれてくる、最初は、ね、ものすごく決まりわるそうにはいったんですよ、あのねうしろからそろそろって、ところが、だんだんずうずうしくなって、もう、みんなも知ってまして、一時間おくれったって、大きな顔して入っていって、ガラガラって、で、一番後ろの席にすわって、で、弁当くっちゃう、で、昼飯になると、みんな、俺が腹へるのしってるからね、同級生が、みんな半分位ずつ弁当もってきてくれる、だから、どんどんくう、もう、そういうかんじでね、そいで、あとホーガンだけ、 投げときゃいい。でもね、あの、本当にそういう、最近の子供っていうのは、よく質問されるんですけど、えー、あのー私は私の人生に、私は何かひとつ燃えるものがないとか、私の場合はホーガンとの出会いが、本当に、私の人生を左右したっていうか、えー、中学二年のときに、家族と一緒にブラジルに渡ることになりまして、そんで親父は五才の時になくしましたんでね、えー、親父の顔をよく覚えてないんで、おじいさんにあずけられて、おじいさんと、ほんとに親子みたいに、おじいさんの、昔は、布団に入ってね、でー、お乳をね、五才まで、おっぱいをのんでたらしいのね、で、六才ぐらいからおじいさんのところへいきましたからね、なんかね、やっぱりおっぱいが恋しい、おじいさんのひじがねおっぱいの代わりでね、よくさわってね、それでね、こんな環境でそだったものですから、まあ、親父以上に、こう、おじいさんが、愛してたっていうか、好きだったのね、まあ、親父、おじいさん、おふくろ、兄弟と一緒に横浜港からブラジルの方へ移住した、四十五ヶ月間、あの、船でかかったんですけどね、あの、途中に、おじいさんを亡くしてしまったんです、で、あの、ちょうどパナマ運河というところを通りかかりまして、知ってます、パナマ運河、最初パナマ運河っていったってみんな返事しないんだ、世界地図やってんのかね、え~パナマ運河ってところはね、太平洋から大西洋をつなぐ、非常にユニークな、水槽みたいになっていて、船を、三段式にして、水位をあげていって、大西洋へやる、で、その、運河を渡るときにおじいさんがですね、まあ、我々兄弟みんな集めて、甲板でいろんな話をしてくれた、ちょうど七十七歳の喜寿の祝いを終えてでてきましたからね、今なら、平均寿命が非常に長くなってまして、まあ、七七才にしてはすごい元気でね、我々を集めて、自分の昔話をしてくれました、実はあの、このパナマ運河の鉄道の権利、運河を引っ張っていく鉄道があるんですけど、その鉄道を、ものすごく、その、おじいさんが景気のいい時代に、買わないかっていう話があった、ところが、まあ、米相場で、たいへんのってるときだし、交渉したかどうだかその辺はわかりませんが、まあ、そういう話があって、もう、その、権利が大変値上がりして、それを買った人が世界の財閥になったってきかせてくれましてね、まあ、そんな話をきかせてくれた後、クリストファーっていう港に降り立ちましてね、はじめて下船がゆるされましてね、一ヶ月ぶりです、船から降りたのは、そうしたら、薄グラーイ町で、もう本当に、黒人ばっかりで、ところが、まあ、下船しましてね、まあ、我々も陸にあがったわけだから、興奮しましてね、なんか足に地がつかない感じでね、それで、こう、町にでましたらね、バナナをうってましてね、こんな二mくらいの大きなバナナ、一本じゃないよ、フサフサしてましてね、えー、我々ちょうど子供のころは、バナナっていうには一本がたいへん貴重でね、高級品だった、それがね、そんなね、一房がね、大きな房が一ドルで買える、興奮しましてね、兄貴と一緒に一房買いましてね、それで船にのってかえってったら、おじいさんが、その青いバナナをたべましてね、それが腸閉塞の原因になった、で、死んでしまった、おかしくはないんだよ、まあ、あの、とにかく、クリストファーから三日目に、ちょうど赤道直下、赤い線があるところ、レイ・コンマ・レイ・サンっていうところ、おじいさんが水葬されたんですが、まあ、本当に、自分が親父代わりに、本当に愛してたおじいさんが突然に、あんなにもあっけなく死んでしまった、で、水葬するときにですね、え~、棺桶に鉛を入れましてね、日の丸をまいて、船の後ろからクレーンに積んで、ポーンと、スーンと海の中へ沈んでいた、私はそれをじーっとみてたんですが、とにかく、そのおっこった位置が、船にずーっとついてくるかんじでね、それで、ちょうど、水葬した時間が夕暮だったんですけどね、大西洋の、ちょうど船の真後ろにお日様が落ちてまして、かぁー と燃えるような日が沈んでいく、で私はね、それをじーっとみながらね、とにかくね、あまりにもひとつの命がなくなっていくあっけなさとそれからもうひとつ、あの、その、死ぬ前に少年のような目で、私どもに、語ってくれたおじいさんの印象、今でも、目をつぶると、焼きついて、思い起こすんですけど、その、そういう生き様っていうのを、本当に、あの、なんか、死ぬときに我々にみせてくれたという、まあ、そうこうするうちにブラジルに上陸しましてね、えー、ついた日から汽車にゆられてサンパウロから約1,000キロ奥に入ったとこなんですが、とにかく、いけどもいけどもコーヒー園とジャングルの間をとおっていく、リンスという町に着きまして、そこからトラックに乗って赤土の道をどんどん何キロもいって、ついたところが、パジュンク・スイスタというコーヒー園のとこなんですが、でもう、古いコーヒー園で、我々が最後の入植者っていうか、移民なんですね、でついた翌日、ついた日はもうとにかく遅かったんで、スイトンって知ってます、みんな、粉をね、みんなあてがわれまして、その粉を練って、もう、とにかくお湯をわかしまして、それをつくって、食べて、もう寝た、電気も何もないんです、もちろん水道もないしね、それで翌朝起きたら、すぐコーヒー園に、トラックで、、みんなトラックはなかったんだ、歩いていくんですけど、監督がきましてね、みんな実をとる、で、コーヒーの木しってます、みんなで赤い、ほら実がついてるじゃない、それをね普通は、あのキリマンジャロとかモカとか知ってる?種類知ってるでしょ、あれはね、赤い実だけおこっとして、ブラジルでは木をしごくのね、バッバッバッって、枝をしごいていく、しごいた奴いるだろう?笑った奴だ、笑った奴、で、ところでね、爪の間がささくれになっちゃう、ここから血が噴き出してね、最初は軍手をはめてこうやったんだけど、もう、それが一時間もしないうちに、軍手がぼろぼろになっちゃうのね、最後はね、もう、自分の手でやるしかない、気持ちいいわけじゃないよ、いてえんだよ、で、今度は実をふるいにかけてこっやるんだな、そういう仕事、これが終わると今度はね、草刈るわけ、するともう、一日で、熱帯ですからね、草刈った日、翌日 雨が降る、するともうあたらしい芽がでてくる、そういう重労働の中で、我々が着ているシャツが、自分のかいた汗で塩がパンパンになってね、こうやるとたつくらい塩分が噴き出すんだね、そんな中で私はどちらかというと肥満児で、ちょっと、こう太り気味だったのが、えー、兄貴がそのぜひそういう労働の中で陸上の大会にでたい、日本では東京―青森間の駅伝なんかあるけど、第一回選手としてでたんですけど、サンパウロの全国大会があるからぜひ出たい、で我々が仕事を三十分伸ばしまして、で兄貴は三十分短くして、その分練習した、それで、大会にでたら、見事兄貴が五千と一万で優勝してきましてね、その帰りにホーガンをまた買ってきてくれた、それで、私は本当に何年ぶりもう本当に、自分が、日本を出る時に、自分は日本には二度と帰ってこない、地球の裏側にいくわけで、でもね、いつか、プロレスラーになりたい、で、あの牧場で、オリンピックにでもでて、ルー・テーズっていうチャンピオンって知ってますか、ルー・テズの門をたたいてね、え~、ちょうど、私が日本を出る頃は、力道山がテレビに登場しましてね、すごい人気だった、一つのテレビにこれくらいの人がいた、で、それをまた実況中継しましてね、どこどこの公園には何千人集まりましたってね、で、みんなが興奮してテレビが倒れましたとか、で、そんな時期で私が向こうへいったからね、レスラーになりたいなって、いつかはオリンピックへ出てみようって、そしたらホーガン買ってきた。久しぶりに、本当に、労働で疲れてね、足腰がたたないくらい、這いずってね、その、寝床へ入る前に、ごはん食べてベッドへ這いずっていってはいったら、もう寝てるってくらい体を使った時期があった。ところがコーヒー園で一年半やって、それから落花生と綿作りを自分達で土地を借りてやって、えー、そういう、こんな場所をかえまして、多少自分の時間もできまして、兄貴がそのホーガンを買ってきてくれて、自分で早速、自分の家の横にですね、サークルを作りまして、また投げはじめた。で、あいかわらず、電気がないってかんじですから、ランプを置きましてね、一生懸命投げてたんですけど、ちょうど、もう、そうですねえ、十二時、だいたい八時位になるとみんな寝てしまう、それで、ところがね私はね目標をきめて、そのランプに到達しないとやめないって決めてたわけ、ところが、その日のコンディションによって、そこまでいかないこともあるんですね。おふくろが何回かきてもそれでもやめない、で、とうとう十二時をすぎましてね、もういいかげんにしたら、で私もやめたことありましたけど、ま、それくらい一つのことに熱中できるっていうか、もっともね、ブラジルの奥地には何にもないのね、女もいないしさ、もうジャングルが背中あわせでね、大きなトカゲとかね、やっぱり今の子供っていうのは、非常にひとつはものが豊か過ぎるっていうか、いつも、こう、選択しなきゃならない、私の場合は何もない、それしかない、そういう意味でね、ホーガンに熱中できましてね、それで翌年、大会にでましたが、えー、優勝できまして、私は自己流で投げたんですけど、体力があったから、それが新聞にでましてね、力道山の目に、ちょーど力道山がブラジルに遠征にきてましてね、で、日本人の記者が力道山に、こんな日本人がいるけどレスラーにどうだろう、ぜひあいたい、ま我々は奥地にいたもんですからね、え~力道山が連絡しても連絡がとれない、で、我々、その年に、ちょうど落花生を作ってね、大当たりしましてね、普段の何十倍の値がつきまして、ね、俺たちは百姓にむかないよ、一回サンパウロにでよう、俺たちはとにかく夢を大きく持ってブラジルへきたんだからね、何かひとつやろうってことになって、それを機会にサンパウロへでてしまった、そんなことで力道山の方もなかなか連絡がつかなくてね、たまたま力道山を世話してる人が、え~、我々がですね最初サンパウロにでて何もできませんから、ヤッチョウバのね野菜のなんとかを担ぐ、そういう仕事をやったんですけど、そのヤッチョウバのですね、力道山を世話してる人に実はこういう話が力道山からあったんだけど日本人のこういう青年をしらないか、実は仲間がいましてね、いるじゃないか、で、そのままつれていかれてね、車に、力道山のホテルにいって、もう私も緊張しましてね、何かすごくでっかくかんじたし、おっかなそうな中に、やさしい目をしてね、それでいきなり、おまえ脱げ、で仕事着全部脱いで、で、ズボンを脱げ、あわてましたよ、私は、パンツまで脱げっていわなかったからね、パンツを脱いでも自身はあったけど、それで背中をみせましてね、後ろを向けっていわれましたからね、よし日本行きだ、とゆーことで、私はプロレスラーになりたいって夢はあったんだけど、そのさっきいった、なぜホーガンの話をしたかっていうと、結局ホーガンをね、こーなげてた、それが少しずつ、こう、遠くへいくわけでしょ、自分の目標を、ランプをおしてくる、で少しずつ近つ゛いていく、で、自分がプロレスラーになりたいっていう夢があった、でいきなり力道山がきて私がプロレスラーになった、これは運が強いのかなあと思ってたんですが、そうじゃなく、日ごろ毎日毎日少しずつやってる努力がね、何にも計算なく、自分が一生懸命好きなことに打ち込んでたのが、いつの日か、自分がプロレスラーに成りたいっていう夢に届いたんだね
、それで力道山のプロレスに誘われて、だからチャンスが向こうからきたのもあるかもしれないけど、その前に私がそのチャンスに少しずつ近ずいて、自分で手にした、えー、だからね、今日のタイトルじゃないけど、みなさん、色んな夢や、いっぱいあると思うんです、でその夢を実現するのは、目にみえない、本当にちっちゃなことだと思うんですが、毎日の努力だと思うんです、で、子供が生まれて、まず、ハイハイして、えー何かにつかまって立って、それから、いきなりは走りださない、まあ、そういう、プロレスも、本当に、毎日、口から血がでたりね、えー背中痛めたり、その繰り返しの中で筋肉が強くなっていく、それではじめてプロレスラーとしてリングに上がることができるんですけどね、えー、何かね、こーゆー難しい、難しいかな?難しくないね、大体みんなが聞きたいことってわかってるんだよな、ブルーザー、ブロディーはどうですか、それからジャイアント馬場とどっちが強いですか、だけどね、タイトルつけられると、何か難しい話しなけりゃいけない気がするのね、だからさ、後でおもしろくねえよっていってくれたら、すぐ話し変えるからさ、えー、それとね、まあ質問コーナーがありますからね、何でもバンバン、一番聞きたいことは、本当にショーケンとできてるんですか、それも後でゆっくり説明します、えー、まああの、私はそーゆー少年時代を過ごしましてね、えー、プロレスラーになって、まず、最初に世の中の汚い部分を見たのはね、ジャイアント馬場と同じ日に入門したのは、日本へついて、人形町の、昔人形町にあった、力道山のベンツに乗って、バーっと第二京浜の踏み切りの何百台の、何十台か、車がつながってねそこへびゅびゅびゅって、後ろからベンツでシューって、そーゆーことが平気でまかり通ったのね、それで私はすげえなあって思って、力道山の道場についてね、それで、とにかく、色んな選手に紹介された、今日ブラジルからつれてきた二世だ、私はね二世って売り込みだったんですよ、だから、色んなスポーツ新聞の一面にでましてね、で、ちょうど日本を出てから三年目ですから、帰ってきたら親戚から色んな電話がかかってきた、完至だろう?本当は完至っていうんです、完至だろう?いえ、私は知りません、後で、親戚怒りましたよね、三年たったって顔変わるわけない、でも力道山にいわれた通り、おまえはブラジルの二世だ、私は二世です、そんな中で道場にいってるうちに、みんなに紹介されましてね、私も日本語しゃべるのにカタコトでね、それで、ものを書くときはローマ字で書いてよこした、それでね、最後に紹介された人がね、真っ黒い背広を着てね、こう、斜めのベンチがあるのね、道場の横に、そこにデカイ人がいるなあと思った、顔が長いんだね、それがジャイアント馬場だった、それでね立ってきたら俺よりでかい、当時はマンボっていうのが毛むくじゃらでね、それと大木金太郎がでかい、それまで私の世界では私が一番でかかったわけでしょう、でまわりがみんなでかいしね、いやあっーと一瞬びくっりしましてね、実際リングにあがってトレーニングしたら、何だこんなもんか、ジャイアント馬場に関しては特にライバル意識を持っていましてね、絶対負けたことがない、何やっても、屈伸運動やったって彼の倍はやる、腕立てやっても倍やる、ところがいよいよデビュー戦がきましてね、半年位でデビューできんですけど、デビュー戦をやったら俺はね、絶対に勝てない大木金太郎にね、一年先輩だし、年も十幾つ違う彼にねデビュー戦、俺がね寝てても勝てるっていう田中さんっていうの、それがジャイアント馬場の相手だった、何でだろうと思ったわけね、やっぱり今ならわかりますよ、ジャイアント馬場を一生懸命育てて、自分の後継者というのか、早く自分が楽しようっていうのかね、そーゆー矛盾を感じたのがね、まず、最初、それから、まあ、プロレスに多少、ウーンと思うようになって、それから練習を倍やりましてね、彼の方はすぐアメリカにいってね、どんどん毎日の新聞賑わしてね、チャンピオンになりそうだなんてね、ニューヨークですごいとか、私はせっかくのチャンスでね、いよいよアメリカ行きが決まった時にね、足を怪我しまして、それがキャンセルになって、で大木金太郎が代わりにアメリカにいった、で半年しないうちに彼がタッグチャンピオンになりましてね、であせりにあせっていたのが二十位のときでしてね、力道山がちょうどそのころ暴力団じゃない、ケンカで腹を刺されましてね、病院へ担ぎこまれて、まあ、死んだんですけどね、でアメリカへ自分はまあ、修行にわたったんです、でまあアメリカに渡った時にですね、えー、プロレスって、自分で大きく夢を持っていったわけです、あんな外人とできるとか、夢を持っていったわけですが、現実には向こうの生活に入ってなんか惨めでね、夢がなくなってしまって、そんな折ちょうど1964年に、モハメッド・アリが二十一歳でチャンピオンになった年で、で私にボクシングの話がありましてね、縄跳びとかみんなやったらね、いいと、それで第一試合のギャラまで決まりましてね、それでだいたい十戦位やればね、えー世界ランキングに入っていけるって、そーゆーはなしまでしてもらってその気になったんですが、残念ながら、ちょうどボクシングランキング十位の選手が転向してきましてね、ボクシングはこんな世界だと聞かされましてね、私もね、せっかく夢を持ったのが潰れてしまって、その夢おジャンになってしまったんですけどね、モハメッド・アリとやりたいなあってその時思ったんです、私が二十位でそれから二年ですか、やっぱりその試合が実現したんだけど、モハメド・アリとやった試合見た人います?だいぶいますね、これもねボクシングのチャンピオンとね、プロレスっていうのはどちらかというと下にみられる、それでこんなのは売名行為だ実現するはずがないとか大変な悪評をかいましてね、新聞紙上で書かれたんですが、結果的には実現してね、俺はやりたいんだ、とにかく俺は自分がリスクをしょってもいいよ、でアリのギャラっていうのは当時で二十億円なんです、それでそのギャラを俺が保証しなけりゃいけない、ところがそんあ金はどこにもないし、テレビも払ってない、私はスポンサーをいっけんいっけん回ってね、とにかく、俺は勝って利息分をつけて返すから一つ応援してくれってことでね、十億近い金集めてね、後半分儲かったところであっちに払うってことで話がつきましてね、いよいよ実現したんですが試合は惨憺たるもので、私は3ラウンドで絶対勝てると思ったものがね、気がついたら15ラウンド終わってしまった、相手の足は大変傷ついたんですがね、大変気の強い奴でね、こんなに腫れてるのに全然痛くない顔してホテルへ帰ってね、エレベーターに入った瞬間、がターンと崩れて倒れた。まあそーゆー大変な思い出のある試合だったんですが、あの、何か、私は、今日ここで燃えてみろってことで、私何か一つに執着っていうのか、必ず自分の手にできる、だから女房と恋愛した時にちょうど私は二十… アメリカから帰ってきたのが66年なんですが、東京プロレスっていう会社を旗揚げしましてね、当時私の先輩がいたんですがね、その先輩と一緒に、その時私に紹介されたのが倍賞美津子なんです。彼女はまだ、そーねーあの頃は十七、十八かな、おっぱいがビンビンビンってねすごかったんだけどね、いや、それだけに惚れたわけじゃないんだけどね、あのまあ、そのー非常に健康的でね、私も実は事情がありましてね、アメリカで、籍は入れてなかったんですが、結婚してましてね、結婚してるって意識はなかったのね、同棲してるだけで子供ができちゃったから、俺はまだ一人もんだよみたいな顔してたから、まあそんな環境で、彼女と知り合ったんで、俺はまあそーゆーことはよくないんじゃないかなあと、自分に言い聞かせましてね、で食事いったりするつきあいだけで終わりましたけどね、ところが、そのうち東京プロレスが潰れましてね、破産でね、それどころではなく借金におわれましてね、毎日毎日大変だった、そのうち彼女のことは頭のどこかに消えてしまってね、である日、日本プロレスに復帰しましてね、ジャイアント馬場とIB、BIか、IBだな、俺の方が先か、黄金コンビということで売り出しましてね、私の方も又人気がでた、である日、ブラジルの方に里帰りでいきましてね、えー、家族と話したら、そーいえば倍賞美津子ってどうしてるの、そーいえば、忘れたのが蘇ってきまして、日本へ帰って早速色々考えた、作戦を、どうやって近ずこうかな、それで考えた末で、ブラジルへいったらブラジルに大変なファンがいてね、ひとつ倍賞美津子の色紙がどうしても欲しいってことで俺が約束してきちゃったからどうかお願いします、それでね、倍賞って名前あんまりないのね、東京でも二軒でさ、それで電話帳繰ってかけた、そしたら倍賞美智子ってのがいた、それが従姉妹なんだよね、一生懸命こっちはそれに喋ってるわけよ、どうも話があわねえなあ、よく調べたら従姉妹でね、彼女の番号つきとめて、で電話した、でお母さんのとこ、幸いなことに、お母さんがプロレスファンでね、で行ったら大歓迎してくれた、一升瓶三本ぶらさげてね、実はこういうことで色紙が欲しいんだ、喜んで書いてくれてね、色紙なんかどーでもいいんだ、俺はね、それで、一升瓶とジョニ黒一本もっていってそれを飲んで、よっぱらって、一晩そこに寝ちゃったわけ、そーゆーもぐり方もあるわけね、でまず親をくどき落とす、それでしっかり根回をしといて、彼女にアタックをする、でまその辺から先はうまくいきましてね、結婚とゆーことになったわけですが、えー、大丈夫話?えー彼女との出会いはその程度にしますけどね、一つ、まだ時間大丈夫なんだな、えー一つだけ私の娘の話をしたいと思うんですが、娘はヒロコといいまして十一歳になりましてね、最近新聞なんかにでてんですが、「アニー」というミュージカルをやるようになりましてね、で彼女が今年三月東京音楽祭の優勝者にトロフィーをあげる役をおおせつかってね、それでその出場るメンバーのテープをもらいまして、家で聴いていた、そしたら娘の方が詳しいわけ、全部知ってるわけ、メヌードとかさ、クール&ギャングとか全部、彼女はインター系の学校いってるから英語がペラペラなわけ、そいでまあ色んなテープを渡して彼女はその東京音楽祭にぜひいきたいといいましてね、それで私の方も親バカでいつもは忙しいんですが、一年に一回位親らしいことをしようかと思って、娘をつれていきましてね、その日はタキシードを着ましてね、かっこよかったよ、すごく、それで舞台あがって、それは最後なんですけど、メヌードというプエルトリコ出身のグループがいるんです、五人組の、えーと八歳から十五歳かな、まあそのグループが、うちの娘が大変ファンでね、写真を撮らせてもらえたいって、色々と注文が多かったんですけど、マネージャーにいって全部話しをつけましてね、で彼達が舞台に上がって舞台から降りて来た時、それで娘は待っているわけですね、写真を撮ってもらうように、ところが気後れしたのかタイミングを逸してしまったのね、控え室にバアーと入ってしまった、それで後で話を聞いたら、写真も撮ってもらってないし、サインももらってない、でその音楽祭が終わってから東京プリンスでパーティーがあったんですが、その、しょうがないから、パーティー本当は子供が入れないんですけどもとにかく頼んで写真撮ってもらおうと、特別に頼んで入れてもらった、ところがもう千人位の人ですから、もう、ごっちゃまぜね、もう写真とるとか、サインもらうとかの沙汰じゃない、私共もみんなサインくるものですから、それも沢山、娘はこっちをジーット見てて、こりゃあ頼りにならないならない親父だと思ったんだね、自分で意地をだして、大人の間をぬって、一人一人捜し出して、サインをもらいましてね、一枚もらってくると俺にも見せるわけ、それで最後に写真も撮って、とにかく最大の努力をしてね、五人まとめて娘と写真撮ってくれたりしてね、で家ん帰ったら、大満足でね、興奮してすごかった、でうちの女房と姉と、それから学校の先生と、あの、マネージャーとみんなでお茶を飲んでた、娘は先に寝たんですが、ところがなかなか寝付いてないんで母親が見に行ったら起きて来て、母親が帰ってこないから、こんどは姉の方が、千恵子の方が見に行った、そしたらしばらくしてたら姉の方が帰ってきてね、お宅の親子は何なの、ワンワン泣きながら、抱き合いながら話してね、それでそうこうするうちに娘と女房が向こうから来ましてね、で実はね、今日は大満足って話でね、ところがファンレターを、お礼のレターを本当は出したかった、ところが、事務所へ出しても読んでもらえないだろう、えー自分は自分の、えーその直接の住所が欲しい、その直接の住所が欲しいってことを言えなかった自分の勇気のなさを泣いてた、それを聞いた母親が感激して、又泣いた、まあとにかく、それでそのあの、感性が強いっていうのか、そういう部分で話に花が咲きましてね、特別におっててたんですが、それから私が旅に出まして、電話がかかって来まして、今年の夏休みはプエルトリコへ行こう、私はピッときたんですけどしらばっくれて、何それ、いわないわけです、それで私が帰ってきたら女房の報告でね、実はそのヒロコってのはすごい子だったんだよ、その自分で住所をもらおうと思ってマネージャーに言ったんですが、マネージャーの方がなかなかアクションを起こしてくれない、待っててもダメだと思ったんでしょうね、自分で一軒一軒、東京のホテルを電話したんです、でまず最初に東京プリンスにパーティーがあったから、泊まってると思って電話した、そしたら交換手がそんなグループは、そんな人は知りません、他のホテルへ全部電話した、そしたら同じ様に断られた、そしてあるホテルの交換手がそんなグループは知りませんていったらしいのね、大人の嘘っていうか、そんなグループ、要するにメヌードでいっただけでなぜグループってわかる?あれは嘘をついてる、それで自分は英語をしゃべるでしょ、友達にスペイン語しゃべる子がいるわけ、スペイン語を一生懸命勉強したんですね、で私は実はあの、プエルトリコから来たメヌードのすぐ隣の町に住んでる女の子なんだけど、たまたま日本に来ている、お話をしたいからって、スペイン語と英語を混ぜましてね、そしたら交換手がまんまとだまされて、繋いでくれたわけですよ、彼達にそれで一人一人と全部話をしましてね、で約束して、又写真を撮ってもらったり、でところが、ある日、また何日かして、彼女えらい元気がない、心配しましてね、どうしたんだ、恥ずかしいから話できない、そんなこといわないでとにかく話なさい、そうするうちにボツボツ喋りだしてね、実はメヌードが、今日、香港に発ってしまう、それで彼女があまりしょげているんでね、いや、とにかく隣の部屋を挟んで、テレビの部屋と自分の部屋とで話をしよう、実は胸が痛くて食欲もなくなってしまった、すごく寂しいんだ、みたいなことを打ち明けた。それはね、まあ大変素晴らしいことなんだよ、あなたがこれからだんだん大きくなってくると、もっと色んな人を愛してね、えー愛するってことはね、本当に人を思いやれるっていうか、色んな愛のことを話した。で、その話を私が旅から帰って来たら、女房が私に話しましてね、いやあ、何て素晴らしい親子だなって思いましてね、えー、まあこんな話はあんまりしないと思うんですよね、ところがそーゆー話を聞いてるうちに、私がブラジルへ発つ前に映画をよく見に行ったんです、もう学校いくこともないしね、とにかく俺達はブラジル行くんだ、日本ともおさらばだ、とにかく映画が好きだったから、映画を一生懸命みていた、その時に一番印象に残ったのが「黒い雄牛」っていう映画だったんですが、その「黒い雄牛」っていう映画はね、大変、闘牛の闘士なんですが、少年と牧場主に雇われてましてね、その少年の家族が難産の牛を大変手を尽くしてお産を成功させましてね、もう牛がすくすくと成長していく、で、その成長した牛が、ある日闘牛で売られていくんです。その売られていく牛をなんとか売らないでくれってその牧場主に頼むんですね、少年のその願いは聞き入れられなくてね、とうとう売られていく日がきてしまう、それで貨車にもぐりこんでね、その、牛と一緒にメキシコシティーまでいくんです。それでなんとか闘牛に出さないように自分なりに考えるんですが、えー、思いついたのが大統領に直訴しようということで大統領の所にいくんですけど、もうつまみだされて、あの手この手を尽くして、やっと大統領に自分の思いを伝えることができる、で大統領から中止命令がでましてね、大統領の補佐官に連れて行かれて闘牛場にいくんですけど時遅し、もー始っててね、もう大変気高い牛で、有名な闘牛士をボンボンはね飛ばしていく、で最後にとどめをさそうかってところで場内放送があるんですけども止まらない、それでまあ、大人の手を振り払って闘牛場に飛び込むわけです、ダーっと走っていくんですけどね、荒れ狂っている牛が少年向かって突っかかってくる、それである場面のところでスパッと止まりましてね、それで少年が牛にとびついていく、その感動した場面ていうのがね、ちょうど私の、自分の娘なんですが、自分が欲しいもの、必死になってやってる姿と私が子供の頃見た映画っていうのが、その少年の純粋な思いっていうのが重なり合ってね、えーすごく感動した場面がありましたけど… ハイ、だいたい話があれですけど、色んな質問もあると思いますけど、いい質問考えてくれましたか?大丈夫? まずさっきのショーケンの問題ね。えー今日は新聞に多少でていますが、えーみなさんも大学、これから社会人になっていくわけですが、世の中に嘘が多いのね。で、あのーたまたま女房というのは、非常におおらかと言うのか、共演した俳優とみんな仲良くなってしまう、仲良くなったって限度があるけどね、見境もなく、打上をやると、ワァーっとフィーバーしてさ、時々はだしちゃう事もある。俺には見せないんだけどさ、そんな部分で共演する相手と色んなスキャンダルを抱えてしまうんですが、偶々ね、今回の場合なんかは、家の玄関から出てくる写真がですね、相手の玄関になったりするっていうね、まあ、こーゆー、私の問題だけじゃないんですが、そーゆー週刊誌のいき過ぎっていうのか、本質的に、現実っていうのかな、でも真実は何処かにある、でもそういうスキャンダルを作る場合には一場面を捉えて嘘を作っていく。これから皆さんが社会に出られて、一番矛盾を感じていくところだと思う。さっき言った自分が矛盾を感じたことは、デビュー戦の時に感じたことなんですけどね、えー大変私の女房は、誇れる女房ですから、えーひとつね、又映画でも見てやって下さい。